巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

鉄仮面75

鉄仮面  

ボアゴベ 著   黒岩涙香 翻案   トシ  口語訳

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2009.7.29

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               第六十六回

 間もなくカフィ・ド・ベルに着き、コフスキーをお供して来た者が待つ部屋に残して、二階の広間へ上がって見ると、ルーボアの姿が見えなかった。さては何かの間違いかと思っているところに、一人のウエートレスが来て、「貴方はもしやヘイエー夫人ではありませんか?」と聞くのでバンダが軽くうなずくと、「お連れ様はこちらでお待しております。」と言い先にたって離れたところに案内して行った。

 この間にも広間にいた何組かの客はバンダの美しい姿を、魂を奪われたように互いに見送っていたが、バンダは気にも止めず案内に従って廊下を伝って、ある一室の前に着くと「ここです。」とウエートレスは指さして、そのまま立ち去ったので、バンダは今更気後れもせず、その中に入ってみると、ルーボアはすでにここにいた。
いつものように忍びの姿とは言うものの、初めてベスモー所長の家で見たときとは全く違って、野暮ったい服は、非常に派手なものになり、人の目をくらますような金鎖などが胸の辺に輝き渡っていた。

 彼は今までは質素一徹の政治家と見られ、当時の華美な風俗に見向きもせず、非常に荒々しい服装で一世をにらみつけようとする気概があったが、判事夫人の言ったように美人には弱い者なのか、バンダを見初めてからは、全くの別人になったように、身を飾る様になった事は不思議と言うほかはない。特にこの日のバンダの姿は木石でない者が見たら、誰だって心を動かされないものはいないほどの美しさなので、彼は一目見るなり、うっとりとして自分を忘れたように「おお、これこそは本当の美人と言うものだ。」と口走り、ふらふらと椅子から立ち上がった様子は、本当に魂が天の外に飛び去ってしまったかと思えるほどだった。

 「ああ、良く来て下さった。」と言いながら、彼はバンダを抱くようにして自分の側の椅子にすわらせたので、バンダは「何の御用?」とあっさり聞くので、彼はうらめしげに、「何の御用かだって、それが貴方にはわかりませんか?」とバンダの顔を見上げながらも彼の手、彼の唇、全てがかすかに振るえていた。彼の心はすべてバンダに飲み尽くされ、彼は既に日頃の度胸と日頃のおごり高ぶりを失い、今はもう何処から何処までバンダの奴隷となってしまったのだ。

 日頃余りにおごり高ぶっている人の中にかえってこの様になる人が多いと言うことだ。これは皆、人と人との電気の勝ち負けから来るもので、勝つ者は益々勝って落ち着き、負ける者は益々負けて、益々慌て、ついには片方の奴隷となり、一方は無限の君主になるのだ。初めてバンダがベスモー所長の家でルーボアに会い、彼の顔を見ることも出来なかったのもこの原理で、あの時はバンダの電気が弱くて、強いルーボアの電気に負けたが、その後、何度か会っている中にバンダは恨みのために強くなり、ルーボアは愛の為に弱くなり、それが進んで今はバランスが逆転し、ルーボアをしてついにバンダがかって立ったのと同じ立場に立たせる事になったのだ。

 おごり高ぶっていることではこの世に二人といないとまで言われているルーボアをこの様にひれ伏しさせて、ただ自分の一呼吸一呼吸にも震いおののかせているのは、実にバンダの手柄で、ただこれだけでも、もう夫の仇、同志の仇を全く打ったと言っても良いくらいだった。その様なわけで、バンダは見上げているルーボアの視線を避けずにそのまま見つめていると、ルーボアの方がかえってまぶしさに耐えられないと言う風で,すぐに自分の目を反らしてしまい,またきまり悪そうに上げて来る。

 バンダは「ほほ」と微笑み、「貴方のご用が私にわかるものですか。」と答えると、彼はどう言い返したらよいか分からなかった。しばらくただ頭を下げ、息を詰めて、ちょうど足がすくんでしまったように黙っていた。この時の彼の心の中はどれほど騒いでいたことだろう。勇気と臆病の心が争い、これを外に現せないのは、まさにこれは恋の奴隷になっているからなのだ。彼はバンダの前で縮んでしまって死んだ人の様になってしまったのだ。全体に部屋の中が静かなのは墓の中にでもいるようだった。

 静かさにこれ以上たえられなくなった頃、ルーボアははじかれて飛び上がるように体を動かし、バンダの手をしっかと握った。彼の手は火のように熱く火照っていた。バンダは少しも驚かないようなふりをし、「いや、何をなさいます」と言いながら静かにその手をふりほどいて、自分の膝の上に置くと、彼はもう静かにしていることは出来ないとでも言うように、ぶるぶると震いながら「夫人」「はい」「女に愛情はあるものでしょうか?」これだけ言うのが彼には精一杯だった。バンダはまた笑いながら「おかしな事をお聞きなさること。」

 「おかしな事ではない。真剣です。真剣です。」と真面目な声で、切れ切れに言い出したが、熱心過ぎてその声が続かなかった。「それは有りますよ。天から万人に授けられた情けですもの。」「だけれど、だけれど。」「だけれど、何ですか?」「だけれど、その愛が貴方には伝わらないようですが。」この思い詰めた言葉には、バンダさいもほとんど顔色を変えるほどだったが、今はバンダの目には、ルーボアは小児の様だったので、ただ小児の戯れの言葉を聞いたように、戯れているようにこの言葉に答えた。

 美人が人を悩殺するというのはこんな風にすることなのだ。「はい、真実のない愛情がどうして真実の女に伝わりましょう。」非常にどうにでも取れる返事だったので、ルーボアは自分を励ます言葉と感じたのか、非常な熱心さで「これは実に情けない。私の愛情を真実の無い愛情とおっしゃるのか。男子の考えられるだけの真実で忘れる時もなく貴方を愛しているのに。」とすがりつかんばかりの様子だった。

 バンダは彼を恐れていなかったので、特に払いのけようともせず、ただ驚いたようなそぶりで、「おや、貴方が私を・・」「それを疑うことがありますか」「おほほ、それだから真実が無いと言うのです。貴方の今の言葉ほど真実の無い言葉が有りましょうか。」「今の言葉に真実が無い? これは情けない、実に情けないことを言う。真実の愛でなくて、四十年の今日まで女に振り向いた事が無いルーボアが忍び忍びに貴方の所に来ますか? 真実の愛がなくて、こうして心を明かしますか?」と言ってしまったので、臆病がかえって勇気になり、あとはぐんぐん押し切ろうとした。

 バンダは心の中でこれから先に話を進めて良いものかどうかを決めかねていたので、しばらく返事をしないでいたが、彼はもう今は夢中になっていた。バンダの前に膝間付き「これ、夫人、ただ一言愛すると言って下さい。私の妻になると、これ、夫人、ただ一言返事すれば貴方は私の女王です。主人です。この国中に貴方と肩を並べる夫人は有りません。恐らくヨーロッパ全体でただ一人です。栄誉、栄華も心のままです。王族、貴族と言われる夫人も貴方の前にはひれ伏します。これ、夫人」夫人夫人とかき口説く。

 実際にこの言葉通り、ただ一つの返事でバンダはヨーロッパ全体にただ一人の女になることが出来るだろう。バンダは身を汚して彼の妻となり、その上で鉄仮面の大秘密を聞き出す気になったのだろうか。それとも他に工夫が有るのだろうか。すべてバンダの運命は否か応かのどちらかで決ってしまうのだ。
つづき第67回はここから

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