巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百六  愛 二

 何うして我が顔が此の様に美しくなったのだろう。小雪は鏡に対して怪しんだ。
 怪しむばかりで此の時は、別に嬉しいとは思はなかった。思わないのでは無い。嬉しい心の芽生えが腹の底に萌掛けて居るけれど、未だ自分に分からなかったのだ。是れまでは、鏡を見る事とは稀で有った。殆ど一月に一度か二度、其れも見る積りで見るのでは無く、唯だ偶然に、鏡の前に立つ為に、顔の写るのを認めたのだ。

 やがて此の日は暮れ、寝る刻限に及んで、何だか鏡の中を覗いて見たい様な気がした。是れ丈が早や心の嬉しさの兆して居る証拠だろう。けれど見ずに寝た。明日の朝の楽しみに取って置こうと言う様に感じた。誠に罪の無い楽しみである。
 翌朝は、忘れずに鏡に向かった。ハテ何うしたのだろう。昨日の朝見た時ほどは、我が顔が美しく無い。

 美と言う者は不思議な者だ。取分けて顔の美は最も不思議だ。心の持ち方で、現れる時が有る。現れない時が有る。其れに楽しんで待ち受けて居た心で見るから、美しくても美しいとの感じが少ないのだ。小雪は聊(いささ)か失望した。
 昨日美しいと思った時に、別に喜びはしない様だけれど、今朝美しく無いと思って失望を感ずるのは、其れだけ昨日嬉しかった為であるのだ。

 けれど失望と言っても僅かである。もう再び鏡を見ないと決心する程ではは無い。却(かえ)って益々鏡を見たい心地がする。此の後は毎朝見た。見る度に美しさが優って来る。或時は人形を懐(いだ)いて自分の顔と見比べて見た。少しも自分の顔が劣って居ない。

 人の眼には何と見えるだろう。何故美しいと言って呉れる人が無いのだろうと、此の様に怪しむ心さえ起こる程とは成ったが、併し其の怪しみは長くは無かった。外に出ると振り向いて見る人さえ有る。
 「美しい娘だなア」
と呟く声が聞こえた。イヤ聞こえる様な気のした事も有る。

 其れに又或日の事、我が家の庭に逍遥して居ると、彼方の蔓草に覆われた木の陰で、家の老女が小雪の父に語って居る声が聞こえた。
 「旦那様、貴方はお気が附きませんか。此の頃、嬢様の美しくお成りに成った事は如何でしょう。朝など台所へ出てお出でに成りますと、宛(まる)で見違える様に思う事も有りますよ。」

 アア、見える。見える。人の目にも美しく見えるのだ。鏡が此の身を欺くのでは無い。全く此の身が美しく成ったのだ。
 是が若し嬉しく無ければ小雪は女では無いのだ。況(ま)して若い身だもの、四十づら提(さ)げた男でさえ、コスメチッキ《棒状の整髪料》で整髪に浮き身をやつすのが有るでは無いか。

 殆ど小雪は、老女の言葉に、雀躍(こおどり)もしたい程に嬉しかった。けれど父戎瓦戎はそうでは無かった。彼は老女に言われる迄も無く、とっくにに、小雪のメっきり美しく為ったのを気附いて居た。夕方は朝より美しく、今日は昨日より美しく、一日一日に一刻一刻、其の美の育つのが、彼の目には暈(まぶし)しい程に感ぜられたのだ。

 けれど彼は誰にも言わなかった。言うべき相手が無かったのだ。相手が有っても、言うのが恐ろしかった。
 彼は女の美が何かかと言うことを、此の年に成っても未だ知らない。女の美に何れほどの力が有るかと言う事は取分け知らない。知らないけれど今は其の美を感じ、其の美の力を感じ、自ら争う事が出来ない様に感じた。

 アア美は禍である。
 何故か知らないけれど戎は、小雪の美を禍の様に恐れ、密かに心を悩まして居た。今老女の言葉を聞いて、殆んど顔の色を変えた。
 幾等恐れても、天然に逆らうことは出来ない。戎の恐れに引き替えて、小雪は身の持ち方までも全く変わった。今までは木綿の布子でも、新しくさえ有れば晴れ着だと思って居た。今はそうでは無い。絹物を着け度い。

 同じ庭の中を散歩するにも、自分で女皇(にょこう)が散歩する様な気がして、万物が自分を仰ぎ見るかと疑った。自然に趣の有る態度が備わって来る。
 帽子も羽毛を飾ったのが欲しい。靴も踵の小さいのが欲しい、素より戎は、小雪の望みと言えば、何一つ拒むことが出来ない。心の底には深い苦痛を感じながらも、請われる儘に買って与えた。少しの間に小雪は化粧の術をも知った。流行が何かと言う事も知った。着物の着こなしをも知った。 
道を歩めば誰でも振り向いて見ない事は出来ないほどと為った。

 是れが戎の為には苦痛の種なんだ。人が振り向いて見る様に成ったのが辛いのだ。人の注意を引くが為に、自分の前身が自然に露見する事に至りはしないかと気遣うのみでは無い、其の外に辛い辛い所が有る。茲が即ち誠の親と、仮の親との違う所である。誠の親ならば、我が娘が育てば育つのだけ嬉しい。仮の親はそうとは限らない。

 勿論戎は小雪を愛することは誠の親よりも深い。深いだけに猶(なお)更ら辛いのだ。小雪の育つのは嬉しくても、其の美しさを見れば、人に小雪を奪われる時が近づくのだとの感じが、虫の知らせる様に胸に浮かぶ。其の度に戎は心の底に、何と言ったら良いか分からない痛みを覚えるのだ。

 幾年月の艱難辛苦で、我が老後を安らかにするために育てた小雪が、我が身に取って一刻も無くては叶わないほどの親しみを加えた今と為り、他の人に奪われるか、是こそは神が我が身に与えた最期の慰籍だと思って居たのに、其れが若し、人の物とも成り、此の身よりも更に親しむ可き人が出来て、其の人に奪い去られる事にも成らば、初めから何の慰籍をも与えられなかったのよりも辛い。老いの身に回復の手段も無い打撃である。其の身は絶望の谷底に投げ込まれて、浮かぶ時とては来ないのだ。

 戎がこの様に心配を始めた頃である。レキゼンブルの公園で小雪と守安とが眼と眼とを見交わすに至ったのは。



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