巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou11

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.11


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    噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳 

       十一  甚(ひど)いなア、甚(ひど)いなア

  何だって戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)は、子供の落とした二十銭銀貨を足の下へ敷いのだろう。余(あんま)り愚かな仕草では無いか。彌里耳(みりえる)僧正が何と言った。魂を入れ替えて、善人に成るのだよと。血の垂る様な言葉で教えたでは無いか。戎の耳にはその言葉がまだ響いて居る。彼の心には僧正の限り無い慈悲の心が、充(み)ち満ちているはずである。それだのに、早や此の様な罪を犯すとは何う言う訳だ。

 多分は彼れ、正気では無いのだろう。心が狂って居るのだろう。彼れ十九年の間獄に居て、唯だ世の中の憎いことを許り心に刻み、復讐しよう、復讐しようとのみ思い詰めて出て来たのだ。だから心が狂って居る際でも、知らず知らずに此の様な事をするのだ。子供は忽(たちま)ち立ち留まって、銀貨を足で踏んで居る戎の足を見、次に戎の顔を見上げた。顔は極めて恐ろしい、けれど子供は恐ろしとも思わない。唯戯(たわむ)れと思ったのだろう。考えもせずに戎に近づき、

 「伯父さん、その様な事を仕てはいけないよ。」
 戎は無言だ。
 子供「その足を挙げてお呉れ。ヨウ伯父さん。」
 戎は光る眼で、子供の顔を見た。見た様の凄(すご)さには、子供も初めて恐れを催したらしい。殆ど泣き出す様な声で、
 「大事な銀貨だからよう。」
 と言いつつ子供は俯(うつむ)いて戎の足に両手を掛けた。

 無理も無い。全く大事な銀貨だろう。子供としては一財産奪われる様な者である。戎の足は少しも動かない。子供は力尽きて今度は戎の胸を推し、
 「ヨウ伯父さん、返してお呉れ。銀貨を無くしては大変だから、ヨウ、ヨウ。」
と揺すぶった。

 戎は渋る様な声を出し、
 「銀貨など知る者か。」
と叱った。 
 子供「だって此の足に踏んで居るじゃ無いか。お呉れと言うのに。」
 戎は怒りを示して立ち上がったけれど、踏んだ足は動かさない。子供は剣幕に恐れて一足退いた。その眼にはもう涙が浮かんで居る。

 「甚(ひど)いなア。甚(ひど)いなア。子供の銭なんか盗んで。」
と泣き声で恨んだ。之を平気で聞く戎は、全く鬼である。彼は平気で聞くのみで無い。大喝して、
 「夏蝿(うるさ)い奴だ。」
と再び叱った。子供は泣いて、
 「金を返せ。金を返せ。」

 戎は出し抜けに杖を取り、
 「是れだぞ。」
と振りかざした。全く叩き殺す勢いである。直ぐに子供は泣きながら一散に逃げた。
 けれど暫く行って逃げ兼ねたと見え、やや久しくその泣き声が、淋しく原に虫の音の様に聞こえて居た。何時まで彼は此のままで居るのだろう。

 自分で自分の立って居る事を知って居るのだろうか。その中に日は全く沈んでしまった。戎は身に受ける夜露の寒さにゾッと身震いしたが、是が彼の身に気付け薬の様に利いた。熱を持って居る彼の脳は冷めた。彼れは「オヤ」と云って四辺(あたり)を見廻した。

 やがて立ち去ろうとする様に、彼は背後に在った袋を取って、背負い直したが、此の時チラリと彼の眼に見えたのは、砂の中に光る銀貨である。彼は怪しむ様に俯いて之を取り上げたが、取り上げると共に、電光の様に彼の脳髄に光が射した。彼れは何も彼も思い出した。

 今の子供の泣き声さえまだ耳に響いて居る。エエ何うして私は子供の銀貨を盗んだのだろう。僧正の清い姿も目に浮かんだ。唯一瞬にして、生涯の悔恨に身を責められるのは、この様な時にある。彼は直ちに、暗い大地の上に身を投げた。地を掻きむしって悔やんだ。けれど悔やしんでは居られない。直ぐに立ち上がった。

 「子供よう。子供よう。」
と叫んだ。延び上がって辺りを見廻した。子供は居ない。もう去ってから時が立った。
 彼は子供の去った方へ走った。半丁(約五十メートル)も走ったけれど姿が無い。又声を立てて呼んだ。呼んでは走り、走っては呼び、広い野原を、月の出るまで走り廻った。

 月に透かすと何だか彼方に人影がある。直ぐにその傍へ行って見ると、旅の法師であろう、痩せ馬に乗って、兀々(こつこつ)と夜路(よみち)《夜旅》をして来るのだ。
 「法師さん、お願いです。」
と戎は馬の前に首を垂れ、
 「若し貴方の通った道で、十一、二の一人の子供は居ませんでしたか。」

 法師「愚僧は誰にも逢いません。」
 戎は銀貨を差し出して、
 「何か之を貧民に、お施しなさって下さい。」
 受け取るのが法師の役である。怪しみながら受け取った。
 戎「若しや何処かで子供の泣き声を聞きませんでしたか。」
 法師「聞きません。」

 戎は又、
 「何うか貧民に之を。」
と言って、今度は銀貨二個を出して渡し、
 「アア、私は盗賊です。盗賊です。何うか警察へ連れて行って、懲役に遣って下さい。此の世には居られない悪人です。」
 法師は驚いて痩せ馬の腹を蹴って之も逃げた。

 如何とも仕方が無い。再び戎は声を立てて子供を呼びつつ、何処までもと走ったが、遂に路の三方へ分かれて居る所へ来た。何方(どちら)を見ても村らしい者は無い。彼は大地に摚(ど)うと座した。腸(はらわた)の底から深い涙が迫(せ)り上げた。
 「エエ俺は、エエ俺は。」
と声を放って泣き、頽(くず)折れて泣き伏した。彼れが泣くのは二十年来絶えて無い事だろう。涙が彼の痺(しび)れた脳髄を、解きほごせば好い。

 何時間無いたか知らないが、全く存分に泣いた。之が彼の魂の入れ替わる時であろう。幼い頃から彼の心は、善信を捻じ伏せて、その上へ自分で悪の壁を塗り、世間が憎い、人が憎いと、曲がった心ばかり練固めて、無理に頑冥(かたくな)にしたのだから、もう善と言う心は芽を吹く力も無い様に枯れてしまったのが、その所へ彌里耳(みりえる)僧正の精霊が差し込んだ。

 彼の心は昨夜から革命の様に揉(も)めて居た。今が革命軍の最も盛んに揉み立てる時なんだろう。彼にして、若し少しでも物事を比べて見る丈の力が有れば、僧正の心と自分の心とを比べても見るだろう。自分が自分の目に、全く人鬼の様にも見えるだろう。彼は天国の光に照らして自分の悪相を、愛想の尽きる程に見入った。

 終(つ)いに彼は何うしただろう。それは知らない。此の夜の夜半(よなか)を過ぎ、世間の寝静まった三時頃に、ダインの町を通った郵便の飛脚が有る。その者が丁度彼の彌里耳僧正の住居(すまい)の前を通過した時に、その戸口に一人の男が地に伏して合掌し、神にでも祈る様な身振りで一心に家の中を拝んで居た。
  *  *  *  *  *  *  *
   *  *  *  *  *  *  *
 此の男が戎・瓦戎である事は、言う迄も無い。彼が再び話の表に現れる時は、何の様に成って居るだろう。抑(そもそ)も又何所へ現れて出るだろう。


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