巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百十  庭の人影 三

 心と心とは、物を隔て所を隔てても相通ずる事が有る。天然の無線電信とも言う可(べ)きだ。小雪は石の下から拾い上げた手紙を、未だ良くは読まないうち、誰の仕た事であるかを悟った。曾(かつ)てレキセンブルの公園で逢った彼の年若い紳士で無くて誰が此の様な事をする。

 気の附くと共に小雪は全身が震るえた。嬉しさの波が心の底から打ち寄せた。何と言う美しい文字であろう。そうして其の文句は、イヤ文句は良くは分からないけれど、唯優しい嬉しい事のみが列ねて有る。

 通例の手紙では無い。手紙の様に人に宛てて書いた物では無い。唯だ自分の思う事を、自分で読む為に書いた者の様では有るが、何か無しに一字一句が唯小雪の心に浸み透る様に感じられる。多分は切な、切な、誠心(まごころ)が溢れて文字と為った者だろう。或いは愛と言う事をも説いて有る。或いは死と言う事をも説いてある。相思って相見ない辛さなどと言う事も、身を焼かれる様に書いてある。

 此れは是れ、全く小雪の感じた通り守安の書いた者なんだ。彼は幾日幾月、唯だ恋の奴隷と為り、小雪に逢わずして存(ながら)へるよりは、小雪を思いつつ死んだ方が好いと迄思って居た。其れほどの心を、紙の上に注いだのだもの、深い感動を与えずに済むものか。

 他人は兎も角、同じ思いの小雪に取っては、自分が言うことが出来ない自分の思いを、其のまま文字にしたのかと怪しむまでに感じられた。
 傍に若し見る人は居ないかなどと言う様な、気の咎める心は少しも小雪の胸に起こらなかった。

 小雪は唯だ其の手紙に見惚れた。読み入った。勿論、幸いにして誰も見る人は無かった。若し戎瓦戎が傍に居て、此の様を見、小雪の心が、意中の人の手紙に対して恍惚として居る事を知ったなら、何うだろう。彼は幾年幾十年の自分の苦心が、終に苦心のままに終わり、何の報いをも得ずに、イヤ六十年の艱難辛苦を一時に纏(まと)めて其の身の上に繰り返すよりも、もっと辛い不幸に果てるのを何う耐えるだろう。

 恐らくは絶望して、全く神の恵みも聖僧(ひじり)の徳も無い暗闇の世と知って、乱暴な心にも帰り兼ねない程とは成るだろう。
 暫くして小雪は自分の部屋へ帰った、部屋に帰っても更に取り出して、読み直し、読み直しした。そうして日の暮れ頃に及ぶと、毎(いつ)もより美しく身支度した。

 何の為の身支度か自ら知らない。唯だ自分の心の中に、自分の心よりも強い心が有って、この様な事をさせるのだ。自分でするのでは無い。そうして点燈(ひともし)頃と為ると、此の夜も戎は外出した。其の後で小雪は迷う様に庭に出て、行くとは無しに彼の腰掛けの所に行き、身を下ろすとも無しに其の上へ身を下ろした。

 暫くするうちに、何だか自分の身の辺に人が立って居る様な気配がする。静かに振り向いて見ると、果たして人が立って居る。不断ならば人の姿が恐ろしい筈だのに今夜は恐ろしく無い。立ち上がって其の方に振り向いた。向こうも恐ろしく感じないと見え、立ったままだ。逃げようとする様子も無い。

 両人(ふたり)ともに蒼茫たる暮色の中に包まれて、良くは見ることが出来ないけれど、見なければ分からないと言うほどは離れて居ない。アア是れ曾て公園で見た彼の若い紳士である。青白い顔の色が、殆ど幽霊かと思われる程に見えた。

 恐れはしないけれど、身が蹙(すく)んだ。足に立つ力が無くなった。小雪は後ろに蹌踉(よろ)めいた。丁度背(せな)の所に立ち木が有った。若し之が無かったなら、必ず後ろへ倒れただろう。之に身を支えて立ち、猶(なお)も青白い顔を眺めた。

 此の時の小雪の様子は、先ず半ば気絶して居る様な者だ。何を眺めて居るのか自ら知らない。其の中に相手は声を発した。小雪が曾て聞いた事の無い優しい声だ。けれど低い、低いのは四辺(あたり)を憚(はばか)るので有ろう。殆ど風に戦(そよ)ぐ若葉の音より高くは無い。

 「許して下さい。何故とも知らずに私は此の庭に入るのです。ナニ恐れるに及びません。私の顔を御存知でしょう。昨年貴女と公園で逢いまして、」
と言い掛けて小雪の返事如何と待つ様に顔を見た。小雪は無言だ。

 若紳士は更に、
 「毎夜私は来るのです。来るけれど、成るだけ貴女に、イヤ貴方にも誰にも姿を見られない様にして居ました。貴女の窓下に徘徊(たたず)んで、貴女の歌や音楽を聞き、夜が更けて帰るのです。悪い事かも知れませんが、こうしなければ私は死ぬのです。此の庭へ来る外には、此の世に何の楽しみも無いのです。構わないでしょう。許して下さるのでしょう。」

 哀求する様な声で返事を求めた。小雪は唇を動かした。けれども語を為さない。僅かに
 「あれ先ア」
との声が聞こえたのみで、気絶した。気絶した様に倒れた。



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