aamujyou114
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
百十四 様子ありげ
或る夜守安は小雪の許へ行こうとして家を出ると、途中で嗄(しゃ)がれ声に呼び留められた。
「守安さん、守安さん」
微かに聞こえたので振り向いて見ると、乞食の様な若い女が立って居る。之は手鳴田の娘、彼の絵穂子(イポニーヌ)である。
実の事を言えば、守安は深く此の娘に謝さなければ成らない。小雪の居所を教えて呉れたのが此の娘で、其のお陰で此頃の嬉しい境遇に入る事が出来たのだ。けれど唯小雪の事にのみ気を取られ、其の恩も大方は忘れて、只引き留められるのが癪に障る。何が何でも一刻も早く小雪の家の庭に入り度いのだ。
「何で私を呼び留めたのです。絵穂子さん。」
殆ど咎める様に問うた。絵穂子は恨めし気に、
「其の様に言わ無くても好いのに。」
守安「用事なら聞きましょう。私は急いで居ますから。」
絵穂子「アレ、人が親切に教えて上げようと思えば。」
守安「何をです。何事をです。」
絵穂子は日頃の無遠慮に似ず少し口籠り、
「貴方はあの後ろーーーあの家へ」
と言うのは小雪の許へ行くか否やを問い度(た)げである。
守安「言うなら早く言って下さい。」
此の余所余所しい仕向けに絵穂子は聊(いささ)かスネたのか、
「ナニ、言わなくても好いのです。守安さん、左様なら」
と言って闇の中へ身を隠した。様子有りげな此の振舞いが、不断ならば尋常(ただごと)で無いと、多少気に掛かる筈だのに、唯だ邪魔者の去ったのを喜び、急いでブルメー街の方に行った。
ブルメー街の暗い所に、丁度守安の通った時、二人の男が密々(ひそひそ)と話して居た。若し守安が心の平な時ならば其の言葉が耳に入っただろうけれど、彼は人の居る事にさえ気が附かなかった。
甲「何だアノ家が白髪頭の」
乙「そうよ、美しい娘と婆やと唯三人だが、白髪頭は夜帰らない事も有る。其の様な時には女二人だ。何の様な仕事でも出来る。」
甲「其れは有難い。直ぐに同類に触れ伝え、明夜にも襲い込もう。何にしても此の不景気で、こう仕事が無くては、折角牢を脱出(ぬけだ)しても飢えの為に死んで了(しま)うワ。」
こう言うのは手鳴田の声に良く似て居た。之を聞かずに通り過ぎた守安は不幸である。
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