巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

       百十五  絵穂子と手鳴田

 闇の中に細語(ささや)いて居たのは全く手鳴田で有った。彼は一味の悪人等と共に、戎瓦戎の家に襲い入る事を打ち合わせて居たのだ。
 多分は彼の娘絵穂子が守安を引き留めたのも、此の事を知らせる為で有ったのだろう。そうと知らずに守安が過ぎ去ったのは残念である。

 此の翌夜守安は、又小雪の許へ行く道で絵穂子の姿を認めた。今度は絵穂子から未だ声を掛けないうちに、守安の方で身を翻(かわ)し、横丁に避けて入った。そうして振り向きもせずにブルメー街を指して行った。
 けれど絵穂子は之が為に怯(ひる)まなかった。矢張り守安の後に附き、見え隠れに追って行った。

 勿論守安は小雪の家の裏門に達し、ソッと閂木(かんぬき)を外して其の中へ忍び入った。絵穂子の方はこれを見届け、やがて其の裏門に寄り添って、一々閂木を確かめて見た。中に一本、弛(ゆる)く抜き差しの出来るのが有る。アア守安が外したのは之なんだ。

 其の閂木に手を掛けたまま絵穂子は恨めしそうに呟いた。
 「エエ、本当にに憎らしいよ。人の親切も知らないでーーー寧(いっ)そ此儘(まま)に放って置いて遣(や)ろうかしら。---けれど」
と言って暫(しば)し考えた末、何う思案が決したのか其のまま身を退(ひ)いた。其の姿は何方(どっち)へ行ったか闇の中に隠れて了(しま)った。

 是れより幾時の後である。覆面した五六人の凶漢が、闇の中に、声を殺して語らいながら、此の裏門に近づいた。無論手鳴田の連中なんだ。昼さえも淋しい處だから、全く人通りが絶えて居る。其の中の一人が先ず門に接近して耳を澄まし、

 「何だ、馬鹿に家の中が静かだなア。」
と言えば、次の一人、
 「静かだから丁度仕事に好いでは無いか。」
 前の一人「けれど門を開くのに余り音などをさせては拙(まづ)いからさ。」

 別の一人「先(ま)あ、其の閂木を検(あらた)めて見ろ。何しろ古い門だから、何処かに弛(ゆる)んだ所が有るに違い無い。」
 声に応じて、
 「どれ俺が検(あらた)めて遣(や)ろう。」
と言って、又別の一人が進み出た。

 此の者は上の方から順々に閂木へ手を掛けて、一々に揺り動かしつつ、やがて彼の弛んで居る一本を検(あらた)め掛けたが、この時横合いの暗がりから、不意に又一本の手が出て、此の者の手を無手(むづ)と握った。此の者は驚いて、我知らず声を発し、

「誰だ、誰だ。」
と問うた。
 「誰でも無い。私だよ。此の庭には恐ろしい犬が居るから入っても無益だよ。」
と答えるのは嗄(しゃが)れた声である。

 握られた一人は、握った一人の顔を差し覘いた。外の者どもも、若し敵ならば叩き伏せようと言う様に身構えた。けれど思った程の手強い相手では無く、顔の青白い女である。
 「何だ、女の子の癖に、全体お前は何者だ。」
 女「お前の娘だよ阿父(おとつ)さん」

 男「何だ、絵穂子か。大層声が変わったなア。」
 絵穂子「もう肺病で死に掛けて居るのだもの」
 答えるのは全く絵穂子である。アア絵穂子は守安の身を思う為に、甲弱(かよわ)い身で自分の父を初め五六人の悪党を遮(さえぎ)ろうとして居るのだ。

 父手鳴田は叫んだ。
 「肺病で死に掛けて居る女が何で此の様な親不孝をするのだ。」
 成る程親を遮るのは親不孝と言う事も出来る。
 「私の言う事に間違いの無いのは今までの事で分かって居るじゃ無いか。お帰りよ阿父さん。お帰りよ。」

 父は嘲笑った。
 「帰れと云ったとて帰る様な家は有りはしない。」
 絵穂子「でも此の家は、獲物の有る様な金持ちでは無いのだよ。私が好く知って居る。」
 傍の一人「獲物が有るか無いかは、中に入って、家の者を縛り上げ、天井から穴倉の底まで探せば分かるのだ。」

 絵穂子「其の様な事をする間には犬が吠えて捕吏が来るから、お前らは捕まるよ。思い切って早くお逃げ。」
 又一人「嘘ばかり言って居る。此の家に犬は居ない。俺が昼間見届けてある。」
 絵穂子「犬と言うのは私だよ。私が番をして居るのだ。一人でも此の門の中に入ってご覧。直ぐに私が声を立てて捕吏をを十人でも二十人でも呼んで来て見せるから。」

 一人「構う者か。入れ、入れ。此の女は俺がここで捕らえて居て、声を立てれば細首を引き抜いて遣る。」
と言いつつ早や絵穂子の肩に手を掛けた奴が有る。
 「其れが好い」、「其れが好い」
と幾人か賛成した。其の中の一人は、驚く可し。絵穂子の父の手鳴田である。

 絵穂子は悶(もが)いて、
 「アア、其れが好かろうとも、但し入った後で後悔おしで無い。」
と、太(いた)く度胸の据わって居る様に言い切った。一同は此の言葉を耳にも入れず、再び閂木(かんぬき)に手を掛けたが、中に一人、毎(いつ)も絵穂子には甘い門八と言う者が居て、

 「待ちなよ、待ちなよ、何も仕事は今夜に限らない。此の家に限らない。随分絵穂ちゃんは思い切った事をするから、先ア一同が再び食(くら)い込まない用心をする方が好くは無いか。」
 有力な門八の言葉だから、一同は聊(いささ)か怯(ひる)んだ。中に最も臆病な一人、

 「昨夜俺は橋の下に寝て、何だか嫌な夢を見た。夢見の悪い時には、荒療治は見合わす方が好い。」
 悪人と言う者は迷信の深い者だ。一味の中で二人まで逡巡(しりごみ)する者が出来ては、到底評議が纏(まと)まらぬ。

 「エエ、仕様が無いなア。」
と手鳴田が呟けば、
 「本当にサ」
と又一人が和した。
 猶も絵穂子は言い切った。
 「何、私には構わないから、入るならお入りよ。私は私だ。細首を抜かれても、為(す)る丈の事はするからサアお入り。サア細首を抜いてお呉れ。」

 此の大胆が功を奏した。一同は又も首を集めて蜜蜜(ひそひそ)と評議したが、此の様な事は、一旦気を失っては出来る者で無い。終に出來損なった幽霊の様に、其の姿が闇から闇へ消えて了(しま)った。
 そうとも知らず庭の中では、守安と小雪とが非常に重大な相談に夜を更かして居た。



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