巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十二 軍中雑記 三

      ▲其七 堡塁将に落ちんとす
 一揆軍は良く戦った。堅くエンジラの命を守り、敵を眼前へ引き付けなければ弾丸を放たない様にしたから、随分倒されもしたけれど、弾丸の割合に多く敵を倒した。
 けれど無益である。敵の数は味方の数に十倍して居る。見方は段々に追い詰められ、仕方なく酒店の窓の中から敵を狙撃すると言う有様とは為った。敵は次第に堡塁の中に入り、殆んど堡塁の全体を占領した。此の時に目覚しかったのは、敵を一撃に追い散らした守安の働きである。

    ▲其八 守安の非常手段
 守安は既に小僧三郎を助け、近平(ちかへい)を助け、一廉(ひとかど)の手柄を現したが、彼の拳銃に籠って居る丈の丸は間も無く尽きた。彼は初めから命を棄てる覚悟で居るから、堡塁の最早陥落しようとするのを見て、花々しく死ぬ積りと為り、直ちに酒店に引き返し、店の隅に火薬を盛った樽の有るのを見、其の儘(まま)之を担ぎ上げて、敵の中に躍り出た。

 此の一樽の火薬が破裂すれば、敵も味方も微塵と為り、死骸も残さず死んで了(しま)うのだ。此の凄まじい剣幕に、見る者は皆逡巡(しりごみ)した。彼は樽を篝火の傍に据え、自ら燃えさしの薪を頭上に高く振り上げ、樽の上に立ち上がって、
 「サア敵も味方も己と一緒に死ぬのだ。」
と大声に叫けんだ。

 威(おど)しでは無い。真の決心である。此の危険極まる状(さま)を見て、政府の雇兵等が何うして恐れずに居る者か。彼等は人波を打って崩れ去った。
 堡塁の中に敵は一人も居ない事に成った。敵は皆初めに居た町の角まで退いて、其所から遠く此の堡塁に対した。容易に再び進もうとしない。此の状(様)を見て首領エンジラは手を取って守安を樽から下ろし、

 「アア我が党には何してこうも勇士が揃っただろう。先刻の真部老人と言い君と言い、敬服の外は無い。今から君を我が党の首領に仰がなければ成らない。流石に君は本田大佐の子息である。」
 全く守安は父の勇敢な気質を受けて居る。今までは自分でも知らなかったが。こうして戦場に立つと、自分の心の底に何やら自分の気を引き立てる様な強い力が動いて居る。

 守安はエンジラに謝し、
 「吾輩を首領などと、其の様な事が有る者か。併しお互いに死ぬまで戦うより外は無いのさ。」
 アア死ぬる迄、死ぬる迄、其の死ぬと言う強敵が、こう言う間にも守安の身辺に付纏(まと)って居た。

    ▲其九 身代わりに立つは何者
 誰も知らないけれど、敵兵の中に一人、逃げ遅れて堡塁の間に隠れて居た奴が有る。此者は守安が火薬の樽から降りたのを見澄まし、密かに銃を取り上げて充分に守安を狙った。卑怯な狙撃では有るけれど、政府方には珍しい勇士と言う者だ。そうして彼は萬に一つも射損じの無いのを確かめて射撃した。

 発射の其の瞬間に、又誰だか横合いから手を延べて其の筒口をに飛び附いた者が有る。確かに守安を助けようとの為であろう。其の為に守安は助かった。けれど其の者は守安の身代わりに丸を受けたに違い無い。
 此の銃声に驚いて、居合わす人々、
 「ヤ、ヤ、あの様な所に狙撃者が居た。」
と叫び、其所へ馳せ付けたが、射た奴は直ぐに逃げた。

 遮って守安の身代わりに成った者も、点々と地に落ちる血の痕を留めて何所へか去った。けれど良くは事の有様を見なかった人が多いから、果たして誰が遮ったのかと、深くは調査せずに止んだ。

   ▲其十 血に染まった少女
 後に守安とエンジラは、再び敵の押し寄せるのに備える為、種々の工夫を廻らせ、且つは怪我人介抱の為、酒店の中へ手当所を設け、看護人をも選び定めた。そうして守安の方は、外の様子を検める為め、再び町に出て行った。

 正面の備えは、堡塁が有るから、先ず行き届いて居ると言っても好いが、側面は何うだろうと、守安は付近の路地の様な所に入り、彼れ是れと見廻った上、独り薄暗い街燈の下を帰って来ると、何所からか非常に術(じゅつ)ない《苦しい》微(かす)かな声で、
 「オオ守安さん」
と呼ぶのが聞こえた。振り返ったけれど何者も見えない。或いは自分の耳に騙されたかと、又立ち去ろうとすると、又呼んだ。

 「守安さん、ここですよ」
 声は横手の軒下から来る様だ。其の方へ向かって見ると何者か倒れて居る。扨(さ)ては怪我人かと、傍に寄って俯(うつむ)くと、
 「守安さん、姿が変わって居るから私が分かりませんか。絵穂子ですよ。」
 成る程絵穂子である。職工の服を着けて居る。

 守安「何うして貴女が此様な所に」
 絵穂子「ハイ死に掛けて居るのです。」
 見れば着物にも血が浸みて居る。守安は不憫(ふびん)に思い、
 「手当所へ連れて行って上げましょう。」
と言って其の手を取った。絵穂子は泣く様な声で、
 「痛い、痛い、其所を放して下さい。」

 守安「アア手の先を怪我しましたか。」
 絵穂子「ハイ手の掌(ひら)を鉄砲の丸(たま)で」
 守安「オオ手の掌(ひら)を、其れは最も痛い所だと言いますが、何うして先ア。」
 絵穂子「先刻、堡塁の間から貴方を狙って居る奴が有りましたから、其の銃の先へ飛び附きまして。」
 守安は薄々知って居る。扨(さ)ては私の身代わりに此の絵穂子が立ったのか。



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