巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十五 軍中雑記 六

      
 絵穂子、守安、小雪、孰れも辛い境遇である。其の中で、死んでしまった絵穂子一人が既に世の苦しみを逃れただけ、生きて苦しんで居る他の二人より猶(ま)だ幸いかも知れない。
 けれど同じ生きて苦しんで居る人の中には此の二人よりも、もっと辛い地位に立って居る人が有る。其れは戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)だ。

 小雪も守安も、苦しむとは言え、愛を得て苦しんで居る。戎瓦戎は愛を失って苦しんで居る。其れに彼は毎(い)つも毎つも身の置き所が無いほど危険な境遇に立って居るのだ。
 戎が小雪を愛するのは、昨日今日の事では無い。小雪の母を救った時分から因縁が続いて居るのだ。そうして今まで小雪を育て上げた艱難辛苦は、親身の親でさえも出来る事では無い。

 此の様にして唯小雪の為に苦しみ小雪の為に生きて居る間に、愛が益々深くなったのが無理か。彼は小雪の外に何の慰藉(いしゃ)《なぐさめいたわる事》も此の世に無い境遇とは成った。此の境遇に至って忽(たちま)ち小雪の心を他へ奪われたのだ。
 彼は未だ真に奪われたとは知らない。唯庭に怪しい名札が落ちて居たので、もしや奪われたのでは無いかと疑った。此の疑いが彼の身を攻めて居る。

 此の疑いの為に彼は引っ越した。けれど未だ此の疑いが解けない。顔にこそ出さないけれど心の内は燃えて居るのだ。所が燃えて居る火を更に煽り立てる様な椿事に又出逢った。
 小雪の部屋に鏡が掛かって居る。彼は何かの機(はずみ)に、斜めに其の鏡を覗いたが、鏡の面に、何処から射すか知らないけれど、文字が写って居る。

 其の文字は小雪の筆跡で、
 「恋しき君よ。」
との句である。恋しき君、アア是が一通りの文句であろうか。彼は何処から此の文字が写って来るのかと部屋中を見廻すと、小雪の机の上に吸い取り紙が有る。其の表面に、左文字で恋しき君よ」云々(しかじか)の句が残って居る。之は何の為。言う迄も無い。手紙を書いて早く其の墨を乾かせる為め吸い取り紙で押したから、紙の表へ其の文字が左に残って居るのだ。

 吸い取り紙を取り上げて戎は更に細かに検(あらた)めたが、良くは分からないけれど、相思う人が有って、其れに書を送ったと言う事は争われない。相手は誰だろう。言う迄も無く名札を落として有った守安と言う男に違い無い。公園で幾度も見受けた彼の書生なんだ。是を思うと何年来、自分で揉み消して居た心の底の怒りの一念が、自分で制する事の出来ない程に湧き起こった。

 人は一種の獣である。何の様な善人でも心の底には、獣と同じ様な盲情が潜んで居る。唯自分で勉め勉めて其の盲情を押さえ附けるから、終に枯れ尽くして本当の善人とは成って了(しま)うのだ。戎の如きは其の昔、盲情の強い男で有った。或場合には人間よりは寧(むし)ろ獣に近かったと言っても好い。其れが聖僧の感化で全く生まれ替わった様に成り、自分で勉め勉めて到頭盲情を押し附けて了(しま)った。是でもう全く善人に成り得たと自分でも思って居た。イヤ思った許(ばか)りで無く、確かに善人と為って居るのだ。善人も善人、世に殆ど類の無い善人だ。

 けれど心の底の何所かに、未だ盲情の根が潜んで居た。此の根は到底絶える者では無い。絶えた様に見えても、幾等か残って居る。誰にでも残って居る。既に残って居て見れば、時に感じて萌え出でないとは限らない。火薬は何れほど古びて居ても火に逢えば爆裂する。一旦爆裂した上はもう何れほど燃え広がるかも分からない。戎が心の底に残って居た唯一点の盲情と言う火薬が、今は火の中に投(くば)ったのだ。

 猛然として戎が心の底に、烈(はげ)しい烈しい痛みが起きた。彼は胸を抑(おさ)えて殆ど悲鳴の声を発した。彼は自分の善心が痛く衝き動かされるのを感じたのだ。彼が身は既に既に善心と同化して居る。少しでも心中に悪と云う心が動けば、痛みを感ぜずには居られないのだ。彼は此のまま居ては悪心に食われて了(し)まうと感じた。人が虎から逃げる様に彼は悪心から逃げた。けれど充分には逃げ果(おお)せなかった。

 彼は走って外に出た。そうして家の前に在った小さい台の上に腰を下ろし、独り首を垂れて呻吟(うめ)き始めた。此の時の辛さは他人には想像する事が出来ない。彼は唯胸を撫でて居る。果ては茫乎(うっとり)として自分で自分を知らない様な状(さま)とは成った。此の時彼の居る所から何mか離れた所で、不意の消魂(けたたま)しい物音がした。彼は驚いて首を上げた。見ると一人の小僧が、街燈に石を投げて其の硝子を砕き落したのだ。小僧は物識り顔に吼(ほ)ざいて居る。

 「吾々革命党が旗を揚げて居るのに、市民が現政府の街燈(ツジランプ)に照らされて居るとは怪しからん。昔から革命の時には一番掛けに街燈(ツジランプ)を毀した者だ。」
 戎は乞食の小僧が、食うに困っての悪戯(いたずら)だらうと思った。彼は何の様な場合でも涙が有る。直ぐに衣嚢から五法(フラン)の銀貨一枚を取り出して小僧の前に差し出した。小僧は此の様な大きな銀貨を初めて見た。殆ど我れ知らずの様に受け取って、戎の住居の窓から差す灯光(あかり)に熟々(つくづく)と眺めたが忽ち気が附き、
 「イヤ我が党は賄賂は受けない。」
と言って返そうとした。

 戎「お前には阿母(おっか)さんが有るだろう。」
 小僧「有るとも」
 戎「では阿母さんに旨い物でも買って食べさせるが好い。」
 小僧「幾度賄賂を呉れたとて、町の硝灯(ランプ)を毀さずには居られ無い。此の様な時に腹癒(はらいせ)しなければ。」
 戎「硝燈は幾等でも毀すが好い」

 小僧「オオ伯父さんは話せるなア、其れでは貰って置こう。」
と云って直ぐに去り掛けたが、
 「オオ嬉しさに用事を忘れては大変だ。伯父さん、お前は此の町の七番地を知って居るかえ。」
 七番地は戎の家だ。戎は忽ち気が附いた。
 「己は先程から手紙を待って居るのだが、お前が其の使いでは無いのか。」
 闇の鉄砲が当たった。

 小僧「だって伯父さんは令嬢では無いぢゃ無いか。」
 戎は益々見当が付いた。
 「ナニ小雪嬢に代わって俺が待って居るのだよ。」
 小僧は手紙を取り出して眺め、
 「オオ小雪嬢、小雪嬢では伯父さんは此の手紙が、ショベリーの堡塁(とりで)から来たと言う事を知って居るのだね。」

  戎は少し考えようとしたが直ぐに、
 「知って居るとも」
 小僧「堡塁の誰から」
 戎「本田守安からさ」
 小僧は安心して手紙を戎に渡した。そうして立ち去った。


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