巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十七 軍中雑記 八

      ▲其十一 人心の美しさ

 護市兵の服を着けて戎は何の為め何処を指して行ったのだろう。彼の姿は静かな町の闇の中に隠れて了(しま)った。此の時は夜の十二時を過ぎて居る。
 此の時、彼の青年革命党の堡塁では、首領エンジラの指図に依り、明朝官兵の再び押し寄せる迄にと言って、堡塁の修築を始めたが、武器の不十分な一同に取っては、堡塁が命の綱だから、皆熱心に働いて、前に倍するほど堅固な高大な物を作り上げた。

 首領は之を見廻った上、仲間の数を調べて見ると、宵に大勢居た烏合の者は逃げ去って、以前からの同志の中、四十七人しか残って居ない。幾等堡塁が堅固だと言って、此の人数で、数の知れ無い敵兵を、何時まで防ぐ事が出来る者だろう。彼は一同に向かい、厳かに自分の決心を述べた。

 「諸君、官兵が再び押し寄せれば、何(ど)うでも一同が討ち死にです。(無論、無論の声が聞こえた。)唯だ此の堡塁は、少しでも官兵に、革命の健児が意気地無くは死なないとの事を、思い知らせる丈の事です。(勿論。)そうすれば、何うせ討ち死にするのに、何も大勢の人は要ら無いことです。私は一人でも討ち死にします。若し諸君の中に、少しの人数で此の塁を守るのが恐ろしいと言う方は、手を挙げて戴きましょう。」

 誰も手を上げる者が無い。
 首領「然らば諸君、現在の人数を更に減らす必要が有ります。ここに居る諸君の中には必ず妻子を養う義務の有る人が有りましょう。其の様な人は、討ち死にしては成りませんから、今の中にここを去る事にし、此の堡塁は、独身の者のみで守りましょう。」

 流石に首領の言葉である。けれど誰一人
 「私は妻子が有ります。」
と言う者が無い。実に人間の気が揃うと言う者は恐ろしい。如何に青年革命党とは言え、中には婚礼したばかりの人も有るだろう。又自分が死ねば、妻子父母が明日から露頭に迷うと言う人も有るだろう。一人が叫んだ。

 「誰も帰ろうと言わないから致し方が有りません。一同が残りましょう。」
 全く誰もが討ち死にを望んで居るのだ。
 そうと聞いて守安は進み出た。
 「全く首領の言う通りです。一家を養う義務の有る人が、其の義務を捨てて戦死するのは罪悪です。吾々は共和主義で有りますから、諸君の中で、立ち去る人を選挙しなさい。妻子の有る者は討ち死にの資格が無いのです。」

 直ぐに一同は五人の者を選び出した。此の五人は討ち死にしては成らない人である。
 けれど五人の一人は言った。
 「ここから帰れば、帰る道で官兵に捕らわれます。」
 残る四人も各々言った。
 「途中で死ぬよりはここで討ち死にを。」

 首領は、無言で退いて直ぐに幾枚の護市兵の制服を持って来て、五人の前に投げた。私はこの様な場合を察し、宵に討ち死にした敵味方の死骸の中から、制服を集めて置きました。是を羽織って行けば、誰も革命党の者とは思わず、官兵だと思って咎めずに通します。サア。」
と、促す様に言い、五人に分けて与えようとしたが、生憎に制服は四枚しか無い。五人の一人は嬉しそうに叫んで、

 「私が残らせて戴きます。」
 他の四人も各々言った。
 「イエ私が」
 「イエ私が」
 何と言う立派な覚悟だろう。無事に妻子の傍へ帰って行く道が有るのに、皆先を争って討ち死にを願うとは、アアこうまで士気が振るって居て、其れで官兵に亡ぼされるとは。多勢に無勢の為であるとは言え、未だ天運が熟しないのであろうか。

 併し良く思えば、此の様に固まった男子の魂が、何で無惨々々(むざむざ)と殺されて了(しま)う者か。此の者等は討ち死にするも、その魂は感化として後に伝わり、終に政府を亡ぼさなければ止ま無いだろう。真に魂の籠った理想は、一人の死ぬ毎に相続する人が出来、一代は一代よりも強くなって、終に何者も抵抗する事が出来なくなる。是れが本当の霊魂不滅と言う者だ。

 自分は死んでも、他の人の心に入り、七度も八度も生き替わって到頭目的を達するのだ。現に其の証拠は、此の青年等が死んだ後で、間も無く革命の目的を達する時が来たので分かる。
 五人で争って遂に決しない。
 「其れでは五人の中の誰が残るか、其の一人を本田さんに指名して戴きましょう。」
と言って守安に頼む者が有った。

 守安自身は、全く死ぬ気で居るから、もう人情も何も無い。
 「宜しい。私が指名しましょう。」
と言って、彼は五人の前に立ったが、五人は皆彼の顔を見つつ、
 「何うぞ私を。」
 「私を。」
と言って銘々に点頭(てんとう)《うなづく》して殆ど媚を呈する様に笑んだ。こうせられて何(ど)の一人を指名することが出来る者か。守安は悔しそうに叫んだ。

 「エ、エ、僕は此の様に心の弱い男では無い積りで有ったが、此の指名は僕には出来ない。」
 首領の眼には涙が浮かんだ。こうまで人の心に美しい所が有るとは知らなかった。他の一同も互いに涙を隠した。実に如何とも仕様の無い場合である。
 忽(たちま)ち一同の頭の上に声が有った。

 「指名には及びません。五人を皆お帰しなさい。」
 声と共に護市兵の制服一枚、天から降って来た。是で五人とも助け帰されることの出来る事と成った。それにしても此の制服は何うして天から降った。一同は顔を上げた。見れば見知らぬ一人の老人が、自分の着て居る護市兵の制服を脱いで、人を助ける為に投げたのである。首領は此の人の顔を知らない。彼は守安に聞いた。
 「貴方は知って居ますか。」

 守安は老人の顔を見た。
 誰、誰。


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