巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百三十五 哀れ戎瓦戎 三

 之が地獄で無くて何であろう。深く地の底に埋まった暗い暗い下水の穴、音も聞こえ無い。色も見え無い。唯悪臭の鼻を撲(う)つのみである。
 けれど戎は其の悪臭にすら気が附かなかった。唯自分の身が地の底に潜り得たのを感じたのだ。外の事は少しも分から無い。胸に浮かんで来さえもしない。

 アア助かったと彼は呟いた。成る程助かったに違いは無い。今が今まで百雷の轟く様に響いて居た人の声も銃(つつ)の音も、唯遠い振動の様に聞こえるのみで、聞き分けることは出来無い。ここは全く人間の世界の外だ。唯疑わしいのは生きて再び人間に出られるだろうかとの一事である。

 彼は両側の壁を探って見て、穴の狭いのを知り、頭の動(やや)もすれば支(つか)えるので天井の低いのを感じた。踏む足に答えの無いのは、下が泥だからである。そうして足の濡れる様に感ずるは泥の上に水が流れて居るのだ。

 唯彼は踌(しゃが)んで居た。守安の死骸は彼の肩に乗った儘(まま)である。何しろ天地の覆える様な騒ぎの中から、一時に此の一物さえも動く者無い暗黒の底に落ちたのだから。余りの変化に彼は茫(ぼんやり)として、何事を考えることも出来無い。けれど暫くするうち彼の眼は暗さに成れた。

 幾等慣れても少しの光線も無い所では、物を見る事は出来ないが、幸い自分の潜(もぐ)った鉄の格子から少しの光線が洩れて来る。彼は茫乎(ぼんや)りと穴の中を見ることが出来た。けれど遮えぎる物は無い。何う見ても逃げ場さえも無い地獄の底だ。

 眼が少し明らかになると共に、心も聊(いささ)か動き始めた。アア何処へか逃げなければ成らない。此の儘では居られないのだ。若し何者かが、鉄の格子に目を留めて引き開ければ、此の身の命は其れ迄だ。直ぐに捕らえられて了(し)まう。こう思うと頭の上から落ちて来る少しの明かりさえ恐れの種だ。何処へ逃げよう。何方へ行けば好い。

 何処と言って、選ぶ事の出来る場合なら好いけれど、道は唯一方だ。此の下水の樋を潜る外は無い。
 巴里の町数は、八百八町や其処等では無い。其の頃の地図に依ると二千二百ケ町あった。
下水の道も其の町の通りに数が多く、其の町の通りに入り乱れて居る。町の長さは総計で百四十哩(マイル)、下水の長さも百四十哩、此の長い此の乱れた道を、闇の中で何うして辿り、何して無難な所へ出られる。

 若し出口が有るとしても、出口の在る所には人目も有る。何処まで行ったとしても無益と言う者。だが無益でも逃げなければ成らない。
 この様な場合になると戎瓦戎の身には、何れ程の勇気が有るか分から無い。彼は決然として守安の死骸を擔(かつ)ぎ直し、身を屈(かが)めた儘で下水道の中をソロソロと歩み初めて、歩んで纔(わずか)五歩ほど行くと道が曲がって居る。

 此の曲がりが全く光線の尽きる所で、宛も暗黒を以て垣を作った様に、一種の境が出来ている。此の境に入るのは、何だか黒壁へ突き入る様な心がして流石に決心した身も、胴震いがした。
 真の暗黒の中に入るのは、人間に出来る業では無い。人は光線に棲む様に出来て居る。暗黒は唯恐ろしいのみで無く、何の様な危険が潜んで居るかも知れ無い。

 けれど戎は此の危険を冒さなければ成らない。暫しがほどは躊躇(ちゅうちょ)したけれど、終に泥よりも濃く壁より厚い暗黒の中に突き入った。若しも足を踏み外す様な穴が有ってはならない。躓(つまず)く様な石ころが有っては成ら無い。一足毎に探り探って、空気さえ通わないと思う所を、死骸の重荷を担(かつ)いで、屈(かが)んだ儘(まま)進み又進むのは、戎ならばこそ出来るのだ。

 進みながらも彼は思った。何でも道の傾いて居る方へ行けば好い。溷(どぶ)の水でも低い方へ流れるから、傾いた所が下だ。下へ下へと行くうちには大溷へ出られるに違い無い。そうすれば身体を伸ばす事が出来るのだ。
 如何に力の強い男だと言って、屈(かが)んだままで何時まで耐えられる者では無い。



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