巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百四十一 哀れ戎瓦戎 九

 戎は家に入り、直ぐに二階に上がった。階段の上に在る表の窓が開いて居たから、彼は其の窓から外を眺めた.之は何した事だろう。外に立って居る筈の蛇兵太の姿が見え無い。
 蛇兵太は何処へ行った。何故に居なくなった。蛇兵太は立って居るのに耐えられなくなったのに違いない。

 彼の心中が何れほど騒いで居たかは、誰も知らないが、其の実彼れ、自分の生涯に今度ほど異様な場合を知ら無い。彼は戎瓦戎と言う法律の大罪人から、自分の命を貰って居る。是が第一に、彼が耐えることが出来ないほどの、情け無い事情である。

 大罪人に恩を受ければ、自分の身が其の人よりも降るのだ。だからと言って其の恩を返した所で、自分は大罪人と同等と言う地位にしか立てない。彼は法律を神聖な者と思い、其れが為に、法律執行の一部に任ずる自分の身をも、神聖と思って居る。大罪人に一旦恩を受けた者が、神聖と言われようか。神聖な職務が勤まろうか。

 拿翁(ナポレオン)には、二様の身振りしか無かったと言うが、蛇兵太には其の中の唯一つしか無かった。二様の身振りとは、決然と心が定まって腕を組んで居るのが一つ、思案の決する迄の間、背(せな)へ手を廻して徘徊するのが一つ、詰まり決心と未決心の身振りなんだ。

 蛇兵太には未決心の身振りと言うのは無かった。毎(いつ)でも、法律の通り行うと言うに決して居た。所が今ばかりはそうで無い。既に戎の為に幾等か法律を弛めて居る。彼は此の事が気に掛かって耐えられないのだ。
 全体何故戎が此の身に向かって慈悲を現したのだろう。罪人が警察官に慈悲を現したので、彼は魂消(たまげ)た。更に警官たる自分が、罪人に慈悲を現したに至って、彼は化石するほどに驚いた。

 何う考えても、彼は自分が法律を破ったと言う念が失せない。是ばかりは情け無い。法律の捕らえて居る戎瓦戎をば、たとえ少しの間でも自分が法律から盗み出して桐野家へ立ち寄らせ、又戎自身の家へ立ち寄らせたのだ。もう自分の腹の中に神聖な法律の魂は住んで居ない。魂が無くなれば死ぬ外は無い。

 彼は頑固である。一克(いっこく)である。其の頑固一克が、今まで人を責めた通りに、今は自分を責めて居る。彼は死ぬ外に此の責め苦から逃れる道は無いと信じた。自分はもう法律の執行者で無い。警察官で無い。人間でさえも無い。彼は首を垂れて迷った。

 亡霊の様に茲(ここ)を去り、闇の河の流れに臨んだ。暫(しばら)く水音に聴き入って居たが、世に言う死神に誘われた者だろう。河の中に落ち、重い身体が沈んで了(しま)った。
 此の様にして警官蛇兵太は自殺した。永く戎瓦戎を苦しめて居た、狩り犬の様な男は、此の世に亡くなって了った。

 他日死骸と為って川下に浮き上がったけれど、誰も自殺の原因を知ることが出来なかった。過(あやま)って落ちたのだろうと言うことに帰した。こうなっては聊(いささ)か哀れである。
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 之に引き替へ、蛇兵太に死骸を認められた守安の方は蘇生(いきかえ)った。但し幾日の後である。彼は孫可愛がりの桐野老人の指図の下に、手厚く介抱せられ、七八週日の間は熱の為に死生の境に往来し、唯だ小雪の名をのみ戯言(うわごと)に口走って居たが、血気の盛んな為だろう、遂に傷も癒え、熱も下がり、引き続いて心も力も回復した。尤も彼が病床に横たわって居る間、毎日の様に玄関まで来て、気遣わしそうに容態を問うて去る白髪の老人が有った。言う迄も無く之は戎瓦戎だ。

 病の全く癒(治)ったのは、半年の後で有ったがが、彼を哀れむ余りに、遂に桐野老人が、
 「妻に迎えてやる。」
との許しを与え、
 「小雪とは何者だ。」
と問うに至った。

 彼は無論に、自分の知って居る限りを答えた為、間も無く桐野老人から星部老人へ案内状を送り、令嬢もろ共屋敷へ招いた。星部老人とは、守安に知れて居る戎瓦戎の名前である。小雪は星部令嬢と言うのだ。

 招かれて戎瓦戎は小雪を引き連れ、此の屋敷に来た。屋敷の人達は、過ぎる頃より毎日玄関まで見舞いに来た老人だとは見て取ったが、猶(なお)其の外に何だか見覚えの有る様な人だと噂したけれど、之が半年前に守安を此の邸(やしき)に届けた泥塗(どろまみ)れの人であったとは気が附かなかった。

 其の日の中に、小雪と守安との間の縁談は、老人と老人との間に公然約束せられた。桐野老人は只管(ひたすら)に喜んだ。星部老人は強い喜びの外に、未だ何か有った。更に当人同士の喜びに至っては名画にも写すことが出来ない。世には到底画工の写し得ない物が随分ある。太陽の如きが其の一例だ。
 此の当人同士の喜びの如きが又の一例だ。

 喜びの終わった後で、桐野老人は却(かえ)って嘆息する様に、
 「アア是に就けても残念なのは、私の今までの不心得だ。桐野家と言うえば、可也の身代で有ったのを、此の私が道楽に使って了(しま)い、屋敷の外に何の財産も無い事に成った。今日此の様に贅沢に暮らして居られるのは、唯私の身に附いた終身年金の有る為です。

 私も既に九十の坂を越しているから、幾等今日は健康でも此の上二十年以上は活き延びまい。私の目出度くなると共に、年金は尽き、相続人は無一物となるのだから。其の後は星部小雪嬢イヤ其の頃の本田男爵夫人も、今の美しい手を内職で荒さなければ成らない。」
と星部老人に向かって言った。

 星部老人は聞き終わるや否や、
 「イイエ、星部令嬢は無一物では有りません。七十萬金の資産が有ります。」
と言い、携えて居た辞書ほどの包みを開き、
 その中から一枚千金の銀行券一百枚づつの束七個を取り出して、テーブルの上に置いた。七十萬の資産ある花嫁と聞いて、何処の親か伏して拝まずに居られる者か。



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