aamujyou142
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
百四十二 哀れ戎瓦戎 十
無一物と思った花嫁に七十萬金(現在の少なくても約10億円以上)の大資産が有るとは、世にも意外な事柄である。此の様な意外なら幾度でも有って欲しい。
何して小雪は此の様な大資産が附いて居た。読む人は少しも怪しまない。是れは戎瓦戎が昔斑井市長として一市を監督し、盛んに工業を営んだ頃、稼ぎ集めた金である。彼は、此の金と昔聖僧ミリエルに与えられた銀の燭台とを隠してあった。
彼は市長の経験から、戸籍や民法の事に詳しいから、小雪をば自分の外の星部父老の娘とし、爾(そう)して七十萬の大金は或人からの遺産だと言うことにした。其の上に小雪の身には名誉高き尼院(あまでら)の長から送られた証明書なども有って、貴族の令夫人たるに恥ずかしくない光が附いて居て、戎の小雪の経歴に於ける措置は実に至れり尽くせりだ。併し此の様な事をする間にも、戎の心の奥には、何だか深い痛みの有ることは、彼に笑顔の無いので分って居る。
小雪の方は今まで戎を父とのみ思って居たのに、父は先年病死したもう一人の星部父老だと聞き、少し異様には思ったけれど、異様な事のみ続く中に育った身だから、深くは怪しみもせず、相変わらず戎を父と呼んだ。其れに小雪の心中には、唯嬉しさが満ち満ちて、怪しむ念などの起こる裕(ゆと)りが無い。小雪は日々戎に連れられ、桐野家に行き、時間を定めて守安と語るのが、天国に入る思いであった。
そうして守安の方は何うだ。嬉しさは小雪にも優る程だけれど、男は男だけに、又心を配ることが色々ある。彼は自分の岳父とも言う可(べ)き此の星部老人の気質、身分などを何から何まで良く知って居たい。別に怪しむのでは無いけれど、此の様な老人が曾てショプリー街の堡塁(ほるい)《砦》へ入り、命掛けの場合を冒したのは、何の為で有ったのだろう。
其れは自分の身を助け出して呉れる為で有ったけれど、そうは思う事が出来ない。七十万の大金と人の孤児とを預る責任の重い身で、軽々しく戦場へ臨む筈は無い。而も敗軍と極まって居る戦場だもの、或いは其の実、アノ時の老人は、此の老人では無かったのだろうか。其れとも此の身が其の後に病気の為に、熱に浮かされて其の様な夢をでも見たのだろうか。
何と無く不審で仕方がないいから、或時老人に向かい、ショブリ―街の事を話掛けると、老人は町の名さえも知らない風であった。扨(さ)ては全く此の老人では無かったのだと思い込んで了まった。
更に守安の気に掛かるのは、彼の堡塁から自分を救い出して呉れたのは誰かと言う事が一つ。兼ねて父の命の恩を、返さなければ成らないと思って居る手鳴田の居所を知り度いと言うのが二つである。
人は自分の身に幸福が来ると、早く借金を返して置き度いと言う気になる。特に独身の間と違い、自分の負債は妻の身にまで掛かる様な者だから、出来る事なら婚礼の前に此の二恩人を尋ね出し、恩を返して了(しま)い度いと此の様に思い、内々人を頼んで探らせたが、当夜死骸の様な怪我人を、桐野家に送り届けたと言う馬車の御者だけが分かった。
其の御者の報告で考えて見ると、自分を助けて呉れた人は、確かに下水の樋を潜って、四時間以上も死骸同様の此の身を運んだ事が、其の人の泥塗れに成って居た事情や、その他で充分に察せられるので、彼は益々其の恩の重きを感じ、桐野老人と星部老人との居る前で其の事を話した、
「実に歴史上にも余り類の無い慈善家では有りませんか。私は慈善家と言うよりも、むしろ英雄と此の人を称します。私の方に心当たりは有りませんけれど、真逆(まさか)に見ず知らずの他人では無いのでしょうが、何にしても私と言う怪我人を擔(かつ)いで、下水の樋を潜って逃げ、そうして其の手柄を私へ知らさずに居るとは、驚嘆の外有りません。
彼時(あのとき)の事情から考えると、成程下水の樋を潜る外に逃れる道は無かったでしょう。私は其の人を見出して、自分の命を捧げるまでは、心に安んずることが出来ません。」
と彼の言葉に熱心が溢れて居る様に聞こえた。桐野老人は一方ならず感心し、共々に褒め言葉を発したが、星部老人の方は、知らぬ顔で聞き流した。
守安は思った。
「此の老人は、思ったよりも人情の薄い人である。」
と。
併し是だけの事で、其の恩人が何者かと言う事は少しも分からず、更に手鳴田の方に至っては毫厘(ごうりん)の手掛かりをも得ることが出来なかった。其の中に月が経て愈々婚礼の場合とは為った。
婚礼には種々の式が有る。小雪の後見人である星部老人と、守安との間に契約書も作らなければならない。其の外に記名を要することが沢山ある。けれど星部老人は間際になり、右の手を怪我したと言い、包帯を施して筆執ることが出来なかった。是をも守安は異様に感じた。
「此の様な場合だから、少しは手先が痛んで無理に記名ぐらいは仕そうな者だ。人情が薄いのか、我儘(まま)が強いのか、何にしても見掛けに寄らない。」
と。
婚礼の日は巴里の祭日に当った。市中には異様の服装をして仮面など被った人が山車と共に往来して居る。其の中を花嫁の馬車は通ったが、仮面を着けた一人が其の馬車を見、花嫁と同乗して居る星部老人の顔に目を留めた。直ぐに此の仮面の人は、傍に居る小柄の仮面の人に向かい、
「麻子、麻子」
と囁(ささや)いた。麻子が何者かは既に記した。
麻子「何だえ。父(ちゃん)」
父「此の馬車へ隋(つ)いて行き、何処で何者と婚礼するかを見届けて、晩に父の隠れて居る穴まで知らせて来い。」
麻子は心得て馬車の後を尾けた。此の父(ちゃん)と言うのが即ち手鳴田であることは故々(わざわざ)断るまでも無い。
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