巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百四十九 最後 二

 守安が唯だ「知って居ます」とのみ言做(な)して少しも驚く様子の無いのには、客の方が却って驚き、暫(しば)し戸惑いする様子であった。
 之を思うと成程戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)が自分の素性を打ち明けたのは最もで有った。若し彼が打ち明けて居なかったならば、今頃我は何れほど狼狽(うろた)えて居るかも知れないと、守安は忙(せわ)しい間にも聊(いささ)か戎の用心に合点する事が出来た。

 客は黒い眼鏡の内で、忌々(いまいま)しいと言う目付きをした。若し眼鏡が無かったなら直ぐに守安は此の目付きで、客が其の実何者かと言う事を見て取っただろう。イヤ眼鏡は有っても既に見て取って居る。客は言った。

 「イヤ御存知かも知れませんが、中々私の知って居る秘密は誰も知る筈が有りません。余程当家の名誉に関するのですから、二万法(フラン)は安い者です。」
 守安は叱る様な口調を帯び、
 「誰も知らないと貴方の言う其の秘密を、私は知っていますよ。戎瓦戎が何者かと言う事をも。私をユスリに来る貴方が、何者かと言うことをも、総て同じ様に知って居ます。」

 客は却かえって薄気味が悪い。けれど平気で、
 「私が何者か言う事は、其れは御存知の筈です。只今差し上げた書状に、正直に書いて置きましたもの。零落した学者鳴田と。」
 守安「鳴田では無いでしょう。其の上へ「手」の字が落ちて居るでしょう。貴方の姓は手鳴田です。」

 針鼠は、驚くと身体の針毛を逆立てる。甲虫は驚くと死んだ真似をする。皆其々の癖が有る。此の悪人は驚いて何をした。大声に打ち笑った。実に横着な《図々しい》癖である。 「アハハハハ私の姓を手鳴田、飛んでも無い。」
 守安は太喝して、

 「手鳴田であって、或時は職人長鳥とも言い、或時は俳優濱田とも言い、或いは西班牙(スペイン)の軍人だの、伊国(イタリヤ)の愛国者だのと得手勝手な名を用いて居るでは無いか。爾(そう)して今では零落した学者鳴田、爾(そ)う安々と人を欺く事は出来ません。其の実は曾(かつ)てモントフアーメルに軍曹旅館と言う怪しい宿屋を営んで居た手鳴田では有りませんか。」

 彼は横着な笑いさえ出ないほどに驚き、やっと言う事が出来た。
 「貴方は言掛かりと言う者です。」
 ユスリに来た奴が、言掛かりに遭(あ)うとは奇談だ。
 守安「確かに貴方は手鳴田です。脱獄囚です。悪人です。サア是が相当だ。」
と言い、荒々しく手鳴田の顔に何物をか叩き附けた。

 叩き附けられて痛く無い。手鳴田は其の物を手に取って検めたが又驚いた。
 「ヤ、ヤ、是は五百法(フラン)の大札、恐れ入りました。旦那の様な方には隠したとて仕方が無い。」
と言い、直ちに眼鏡や仮鬘(かつら)などを取り外して本当の手鳴田の顔を出し、
 「緩々(ゆるゆ)るとお話し致しましょう。」
と言った。けれど五百法の紙幣を収めるには、決して緩々るとしなかった。一応検めて、
 「全く本物だ。」
と云ったまま、宛も逃げ去る恐れの有る生物をでも扱う様に手早く衣嚢(かくし)に入れて確(し)かと押さえ附けた。

 併し彼の驚きは嬉しさの為位では消えない。何うして自分の身分が、こうまでも此の本田男爵に知られて居るのか、其の見当が附かないから、続いて出す言葉も知ら無い。彼は曾て、守安と同じ宿に居たけれど、守安の名も知らなければ、顔も見た事が無い。
 守安は以後を矯戒(たしな)めて遣る様に、極めて厳かに、

 「コレ手鳴田、汝の売りに来た秘密は、此の方は悉く知って居る。戎瓦戎を脱獄囚だと言うのだろう。」
 手鳴田「其の上に盗賊で且(か)つ人殺しです。」
 守安は少し考え、
 「其れも分かって居る。盗賊と言うのは、曾て戎瓦戎がモントリウルの市長斑井の金銭を盗み、全く斑井を亡ぼして了った事実を指すのだろう。人殺しと言うのは警官蛇兵太を射殺した事実だろう。」

 手鳴田は守安の知って居る事実が、初めに思ったよりも浅いのに気が附いたか、少し勇気がを回復して、
 「貴方の仰(おっしゃ)る事は何うも合点が行きません。」
 成るほど戎瓦戎に関する守安の知識が浅いにもしろ、守安は其の後、余程戎瓦戎の事を取り調べたに違い無い。

 守安は語を継ぎ、
 「合点が行かなければ聞かそう。千八百二十二年に、モントリウルに斑井と言う名市長が有った。此の人は其の前に、何か其の筋との間に面倒な関係が有ったと言う事だが、併し全く行いを改めて、世に珍しい善人と為り、其の町に工業を盛んにし、市民に対して救世主の様に働いた為、其の筋から勲章を贈られたけれど、其れを辞し、終に人望の帰した為に、再三市長に選挙せられ、辞退に辞退を重ねた上、止むを得ず就職した。

 たとえ此の人に何の様な旧悪が有ったにしろ、実に尊敬す可(べ)き大人物、先ず今の世に聖人とも言う可きで有るのに、有る悪人が、其の古傷を知って其の筋へ密告し、爾(そう)して混乱を起こして置いて、自ら斑井と詐称して銀行へ行き、斑井の預けて有った七十余万の大金を引き出して逃げ去った。此の密告者、詐称者、拐帯者が戎瓦戎である。

 彼は全く斑井市長を亡ぼしたのだ。彼の盗罪は是である。如何にも軽くは無い罪である。其れから殺人罪と言うのはショブリー街の堡塁(ほるい)《砦》で警官を銃殺した。是は私が自ら其の場に居合わせて知って居る。」
 手鳴田は愈々(いよいよ)勇気を得た。

 「貴方の仰る事は、事実の様で皆間違っているのです。第一に貴方が御自分で居合わせたと言う、其の蛇兵太銃殺が間違いです。況(ま)して伝聞の斑井事件などは、更に甚だしい間違いです。何も私は貴方の間違いを、正誤する為に来たのでは有りませんけれど、斯(こ)う打ち解けた上は、知って居るだけ申しましょう。」
と先ず前置きを置いた。彼は守安に二度までも、
 「知って居ます」と蹴散らされて、自分の価値が下がったから、茲(ここ)で回復する積りなのだ。

 前置きの後で勿体ぶって言った。
 「蛇兵太が堡塁で銃殺されなかった事は、堡塁の落ちた後で、彼が此の手鳴田を捕縛する為、出張したので分かります。彼の死は自殺です。溺死です。其の筋の検死まで経たから良く分かっています。」
 守安は少し迫込(せきこ)み、
 「其の証拠は、証拠は。」

 手鳴田「証拠の無い事は言いません。証拠は追々にお目に掛けます。次に戎瓦戎が、斑井市長の預け金を盗んだと言うに至っては、失礼ですが更に甚だしい。更に笑う可き間違いです。何故と仰るのでしょう。旦那、旦那、斑井市長が即ち戎瓦戎ですよ。戎瓦戎が即ち斑井市長ですよ。別人では無く一人ですよ。」
 守安「エ、エ、何と」



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