aamujyou152
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
百五十二 大団円
全く戎瓦戎は死ぬのである。何と小雪と守安が嘆いても引き留める事は出来ない。
彼の顔には笑みと共に死の影が浮かんで居る。彼は此の世の仕事を仕尽くしたのだ。育てた娘も縁附いた。自分の素性も心尽くしも守安に解せられた。此の上に何の心を置くことが有る。
この様な所へ医者が来た。守安は自分の死ぬよりも、もっと辛い程の心配を以て容態を聞いた。医者は一通り診察した上、守安の耳に細語(ささや)いた。
「最う可(い)けません。」
人の死なんとする時には、少しの間、常の様に還(かえ)る時が有る。灯火の消えんとして忽(たちま)ち明るくなる様な者である。戎は其の時が来たのだろう。今まで椅子に凭(もた)れた儘(まま)の身が、突(つ)と立った。併し小雪の肩に縋(すが)った。小雪は涙ながらに戎の杖と為り、其の行こうとする方に従っていると、戎は部屋の隅の棚に行き、小さい十字架を取り降ろした。
「アア茲(ここ)に殉道者が、ある無実の罪で、無言で死なれた方がある。」
と言った。真に戎自らが殉道者である。我より先に我に優る殉道者が有ったと思えば、其れが此の上も無い慰藉(いしゃ)《慰め労(いた)わること》だろう。爾(そう)して彼は座に還った。もう彼のする事が何と無く神々しい。人間を離れて居る。
彼は守安に言った。
「守安さん、小雪の資産は、正直に小雪の物です。不正の金では有りませんよ。」
彼の最も気に掛かるのは是である。守安は首を垂れた。
「悉(ことごと)く私には分かって居ます。謝します。謝します。」
と言うより以上は何の語をも発し得なかった。
此の時此の家の番人の妻が、医者に従って上って来て、部屋の入口に立って居たが、医師から最後の命令を小声で聞き、立ち去ろうとして振り返り、
「僧侶さんを呼んできましょうか。」
と問うた。人の死際を慰めるのは僧侶の役目である。戎は此の言葉を聞いて言った。
「其れには及ばぬ。茲(ここ)に僧正が居られるから。」
アア僧正は何処に居る。誰の目にも見えないけれど、きっと戎の傍に居るに違い無い。もう彼の聖僧ミリエルが戎を迎えに来て居るのだ。戎は真に聖僧に手を引かれて居る様に安心して居る。
彼は静かに小雪と守安とを呼び、
「子供等よ」
と言った。もう二人は彼の子供である。彼れは子供に遺言するのだ。けれど、其の声は戎の口から出る様には聞こえない。遠く高い所から来る様だ。もう戎と人間との間には、人間を侵すことの出来ない隔たりがある。所謂聖と凡との隔たりなんだ。戎は言った。
「小雪、和女(そなた)に此の一対の燭台を片身にする。是は昔し、人から貰ったのだが、銀製だ。私の為には黄金作りよりも、金剛石を鏤(ちりば)めよりも貴い。之を下さった方は今、天に居られて、私の行いに満足せられたか何うだか。私は是でも出来る丈勉めたのだ。」
全く彼れは彼れ、一身の力で勉めたので無く、人間の力の限りを以て勉めたのだ。誰が此れより以上を望むことが出来る者ぞ。戎はは語を継ぎ、
「子供等よ、此の私が貧乏人で有ったことは忘れては成らない。貧民の様に葬って貰い度い。貧民の行く墓地の隅へ、好いかえ、石碑など立てては成らない。唯だ茲(ここ)と言う記(しるし)だけに石塊(いしくれ)を一個(ひとつ)置けば好い。
序(ついで)の時に花でも手向けて呉れるなら満足だ。
小雪、小雪、和女(そなた)の母の名は華子と言った。和女が今幸いであると同じ程不幸な分量を持って居られた。和女の身に幸いの来たのも、其の母が不幸に耐えた酬(むく)いだろう。誠に天の成さることは公平だ。苦しめば必ず幸いが来る。
和女は華と言う言葉を用いる度に、尊敬の心を以ってしなければ成らない。爾(さ)も無くば親に孝行と言われない。サア二人とも茲(ここ)へお出で。
両人は先程から首を挙げることも出来ない。涙を雨降らせて泣いて居たが、其のままズッと戎の傍に寄った。戎は二人の頭に片手づつ置き、撫でながら此の世を去った。生きて笑顔と言う事の無い身で有ったけれど、死に顔は天の光を受けて輝いて居る。此れが人間以上の大往生と言う者だ。
* * * * * *
* * * * *
彼れは遺言の通り、目立たない所へ目立たない様に葬られた。ピヤ、ラチエースの墓地の片隅に石塊(いしころ)がある。人は知らないが、是れが戎瓦戎の墓だ。何者かが其の石に鉛筆を以て下の句を書き附けた。けれど間も無く雨風に拭われて読むことも見ることも出来なくなった。
彼れ眠る。憂き節繁く生きたれど彼死しぬ。最愛(いとお)しの者を失いてされど恨みず。安らけく。
日の往くあとに夜の来るがごとく。
完
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