aamujyou21
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
since 2017.4.21
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
二十一 警察署
直ぐに華子は蛇兵太に引き立てられた。悶(もが)いても仕方が無い。警察の力に勝つことは出来ない。そのまま警察署へ連れて行かれた。
何うなる事かと、華子は震い戦(おのの)いて居たが、先ず暗い冷たい敷石の床に引き据えられた。ここは警察の審問所である。
此の頃の法律に依ると、市中に起こる喧嘩や争いなどは、総て警察署で処分した。即ち巡査部長が裁判官の様な者である。蛇兵太(じゃびょうた)が人に恐れられるのは無理も無い。彼は先ず部下の巡査を呼んで、華子を床の上に引き据えさせ、その身はテーブルに向かって筆を取り、一種の書面を認(したた)め始めた。
此の書面は監獄の長に宛てた者で、即ち華子を牢に入れる積りなんだ。間も無く認め終わって巡査に向かい、
「此の書面を持って、その女を監獄へ連れて行くのだ。」
と告げた。監獄と聞いて華子は跳ね上がる様に起き、何事をか言おうとした。けれど蛇兵太がその暇を与えない。
直ぐに彼は華子に言い渡した。大抵の人が縮み込む様な、冷たい厳かな声で、
「汝は今より六カ月、入牢するのだ。」
此の語を聞いた華子の驚きは、見るも恐ろしい。
「エー、私を六カ月の入牢。何の為です。何の罪です。」
と叫んだが、直ぐに泣き声と為って床の上に伏し、
「それは酷(ひど)い。それは酷い。余(あんま)りと言う者です。何も私は牢に入れられる様な、悪事を働いたのでは無いのです。私が牢に入れば、誰が小雪の養育料を払います。私は毎日稼いで、娘小雪を養わなければ成りません。私を牢に入れるのは、親子二人を殺すのです。許して下さい。許して下さい。部長様、部長様。
成るほど私が紳士に掴み掛かったのは、悪いかも知れませんけれど、、腹立ちの余りに前後を忘れましたのです。何の咎(とが)も無い私しを、向こうが散々に罵(ののし)りまして。それも私が知らない顔して耐(こら)えて居ると、今度は出し抜けに往来の雪をを取って、私の襟首へ投げ掛けました。
幾等身分が違っても、悪いのは向こうです。私は余りの事で、我慢が尽きたのです。それでも達って私が悪いと仰(おっしゃ)れば、私はあの方に謝罪(あやま)ります。ハイ謝罪りますから、何うか牢に入れる事だけは許して下さい。娘小雪が可愛そうです。
私から養育料を送らない事に成れば、預り主の手鳴田と言う男は、少しも慈悲などの無い奴ですから、直ぐに小雪を叩き出します。後生ですから部長さん、何うぞ、何うぞ。」
と泣いて願い、そうして後は、怪しい咳に咽(む)せ入った。
全く此の事は、華子の悪いのでは無く、客が悪い。特に華子の事情を考えて見ると、石でも涙を注ぐだろうが、唯蛇兵太のみは涙を注がない。彼は静かにテーブルから離れ、
「六ケ月の入牢と言う言葉が通じたのだな。通じたならサア牢へ。」
華子は床に蹙(しが)み附いて、
「お慈悲です。お慈悲です。」
と繰り返した。
蛇兵太
「サア牢へ。」
此の部屋の隅の暗い所に、先刻から立って居た一人がある。此の人は彼(あ)の騒ぎの有った料理やの辺から、華子と蛇兵太との後に随(つい)て来て、此の土間に入り、先ほどから黙(だま)って様子を聞いて居たのだ。多分は群衆の中に交じって居た人なんだらう。そうして、今や愈々華子が牢に引き立てられようとするのを見て、耐(こら)えかねたと言う様子で、突(つ)と隅の方から歩み出て、
「少しの間、待って下さい。」
と言った。是れが何者だかは知らない。
何を頼みに巡査部長のする事を遮るのだろう。
蛇兵太は怪しんで、その人の顔を見た。他で無い市長斑井(まだらい)父老である。
蛇兵太は驚きもし怒りもした。けれど自分より役目が上だから、敬(うや)まわ無い訳には行かない。彼の目には唯官等の高下が有るのみだ。高貴の人は貴い。故に礼をする。下等の者は賤しい。故に叱り附ける。是が彼の標準なんだ。彼は剛(ぎこ)ちなく帽子を脱いで一礼しつつ、
「貴方のお言葉では有りますけれど、斑井市長!」
と、待つに待たれないとの旨を述べようとした。
「斑井市長」との名を聞いて、忽(たちま)ち様子の変わったのは華子自身である。華子は兼ねて此の市長を、誰よりも憎むべき人だと思い詰めて居る。
今ここへ現れたのは、更に此の身へ重い仇を為す為だろうとでも思ったのか、積る恨みを輝く眼に溢らせて立ち上がり、巡査が静止する間も無い中に、突々(つかつか)と市長の前に行き、その顔を満面に見詰めて、
「オヤ斑井市長さんと言うのは貴方ですか。」
と叫んで、更に大声に打ち笑った。その笑いには、この様な女の外は真似(まね)も出来ない様な、軽い侮蔑の響きを含ませて有る。確かに市長に向かって、恨みを返す積りなんだ。全く自棄(やけ)の極度に達して居るのだ。
爾(そう)して、
「ヘン、市長さんには是で沢山そうだ、」
と言いつつ、斑井父老の顔に唾を吐き掛けた。アア侮辱、侮辱、是ほどの侮辱が又と有り得ようか。
市長は静かに自分の顔を拭ぐった。そうして非常に穏やかに。蛇兵太に言った。
「此の女を放免(ゆる)してお遣り成さい。」
本当に驚くべしとは市長の忍耐である。
a:571 t:1 y:0