aamujyou25
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
二十五 不思議な次第
本当の戎瓦戎(じゃんばるじゃん)が、アラスの裁判所へ引き出されて居るとは、何と言う不思議な次第だろう。斑井(まだらい)市長は怪しまない振りで怪しみ、聞かない気で聞いた。
蛇兵太(じゃびょうた)は語り続けた。
「その事実を初めから申しましょう。今申したクロチエの田舎に、数年前から住んで居る、馬十郎と言う独身の老人が有るのです。取るにも足りない貧しい者ゆえ、誰もその身元などを問いもせず、只日傭(ひやとい)などに雇(やとっ)てやる位の有様で有りましたが、数ケ月前に、此の者が或家の果物を盗すんで売ったのです。
直ぐに露見して、警察へ引き立てられましたが、折から警察の留置所が普請中で有りましたので、仮に未決檻(みけつかん)へ入れました。所がその檻(かん)に居た一人の前科者が、その馬十郎の顔を見て、確かに二十年前にツーロンの獄で見受けた、戎瓦戎に違い無いと言うのです。
若し此の言葉が事実ならば、警察だけの処分では済まず、正式の裁判に附すべき筈と為りますので、直ぐに諸方の心当たりへ、人を派遣し、戎瓦戎を見知って居る者を、二人まで呼び出しました。そうして馬十郎の顔を見せますと、二人とも確かに戎瓦戎だと言うのです。
此の二人も戎(ぢゃん)と同じ頃に、ツーロンの獄に居た奴ですが、是れで三人の証人が出来たのです。最早や三人の口が揃う上は、それ以上に躊躇する所は無く、直ぐに警察から裁判所へ移しました。丁度その時です。私から貴方を戎瓦戎だと言って密告したのは。
それだから中央政府の上官達は、一も二も無く私を狂人だと言いましたが、私は如何にも残念でならなかったので、多少の抗弁を試みましたけれど、外に真実の戎瓦戎が捕まって居ると言われて、もう争う言葉が無く、それではせめて念のために、その戎瓦戎を見度いと思い、アラスの警察長官に宛てて手紙を認め、何うぞ此の蛇兵太をも、証人の中に加える様に取り計らって呉れと、頼んでやりました。
直ぐにその頼みが旨く運び、私はアラスの予審判官から呼び出されて、先日その予審廷へ出、馬十郎と顔を合わせたのです。私は馬十郎の顔を一目見て、自分の失策を悟りました。その時までも心の底では、未だ貴方を戎瓦戎だと思って居ましたが、駄目ですよ。本当の戎瓦戎の顔は全く悪相です。貴方の様に紳士らしいところが少しも有りません。
私はもう我を折って、正直に証言しました。全く此の馬十郎と言う者が、昔の戎瓦戎に相違有りませんと。彼には確かに獄に居た頃の戎瓦戎の面影が、そのままに残って居ます。
「是れで四人まで口が揃った故、幾等彼が強情でも、もう強情は通りません。けれど彼は流石に戎瓦戎ですよ。言う事が実に旨い。通例の男なら、それは必ず人違いでしょうとか、私は戎瓦戎で有りませんとか、種々の事を言い立てて、係り官の心を動かそうと勉める所ですのに、彼は唯だ、
「私は馬十郎だから馬十郎だと言うのです。」
と答えるのみです。そうして呆れた様な顔をして時々に、
「驚いた」「本当に驚いた」
などと言います。その様子が如何にも誠しやかです。何しろ戎瓦戎は、十九年も牢に居て、四度まで脱獄を企てる奴ですから、通例の囚人とは違います。
その言い方の旨いので、益々私は戎瓦戎だと見て取りました。兎に角、今はもう公判廷へ移されたのですから、先刻も言った通り、終身懲役に決まって居ますが、私はもう一度証人として、今度は公判廷で証言するのです。」
斑井市長は此の物語の間、忙しい様に簿書を繰返しつつ、その様な無駄言は、聞くも夏蝿(うるさ)いと言う様子で有ったが、猶(なお)も帳簿を見詰めたまま、気の無い声で、
「その公判は何時ですな。」
と問うた。
蛇兵太「公判は明日です。私は今夜の馬車で出発するのです。」
市長は前と同じ調子で、
「公判は長く掛かりますか。」
蛇兵太「証拠が揃って居るのですから、無論一日で済みましょう。私は自分の証言の済み次第に、帰って来る積りですが、多分宣告は、遅くとも明夜でしょう。明後日に延びる事は先ず有りません。」
市長は顔を簿書から離し、もう用は無いと言う風で、蛇兵太の顔を見た。けれど蛇兵太は立ち去らない。市長は更に促す様に、
「貴方は未だ何か? 私へもう用は無いのでは。」
と言う風で、蛇兵太の顔を見た。けれど蛇兵太は立ち去らない。市長は更に促す様に、
「貴方は未だ何か私へ御用が有りますか。」
蛇兵太「ハイ最初に申し上げました通り、何うか私を免職されますように、中央政府へ申達書を認めて戴きたいのです。」
市長は起立した、そうして異様に真面目な声で言った。
「蛇兵太さん、貴方は官吏として極めて方正《心や行動が正しい事》な、極めて正直な方です。此の私を戎瓦戎と思って告発成さったのは、何にも自分で思う程の甚(ひど)い落ち度では有りません。辞職とか免職とか言わずに、依然として留任なさい。」
蛇兵太は極まりの悪い様な目をして、市長を見、
「イイエ、何うも私は気が済みません。」
市長「でもその告発と言い、落ち度と言うのは、唯私一身に関した事ですから、私が落ち度で無いと言えば、落ち度では無いのです。」
蛇兵太「イイエ、私は日頃から、人に厳しくする通りに、自分の身にも厳しくせねば成らぬと信じて居ます。」
感心な言い分である。市長は又異様に考えつつ、
「では熟考して置きましょう。」
と言って、丁寧に手を差し延べた。けれど蛇兵太は之を握らぬ。
「私はもう市長と握手する資格が無いのです。」
彼が職務と言う資格を、重んずる様は是で分かる。彼は頭を垂れ、恭(うやうや)しく辞儀をして、
「私は後任者が定まるまで出勤しましょう。」
と言い残し、来た時と同じ様に打ち萎(しお)れてここを去った。
彼もし市長の手を握ったならば、殆んど死人の手の様に冷たいのに驚いただろう。市長の身の中には、今は生きた人の心地は無い。彼は耳を澄まして、蛇兵太の立ち去る足音を聞いて居た。
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