巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou30

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.30


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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   三十  聞けば子守歌である

 馬車の毀(こわ)れたのが天の配剤ならば、代わりの馬車が無いことに決まったところへ、代わりの馬車が現れたのも天の配剤だ。市長は老女の言葉を聞き、全く顔の色を無くした。
 けれど老婆が馬車を持って居る事は事実である。馬車が有るならば、行かなければ成らない。此の土地に一日を暮らす口実は無い。
 無論、馬車屋も、宿屋の者も、行かれてはお客を失うのだから、口を極めて老婆の馬車を非難した。

 「あの様な者は馬車では無い。」
とか、
 「まるで毀(こわ)れ掛けて居る。」
とか、思い附く丈の故障を並べた。けれど輪が二つ揃って居て、その上に人の乗る所が有って、馬に引かせる様に成って居るなら、幾等古くても馬車は馬車だ。

 市長は老婆の言うがまま値を払い、買い取って之に乗り、そうしてアラスの裁判所を指して進んだ。成程馬車と言い兼ねる程の馬車だから、その途中で困難の多かった事は、記し切れない程で有るが、それでも日の暮れる頃に、アラスから七里と言う所まで押し寄せた。ここまで来ると、流石の名馬も疲れ果てて、此の上の進行が頼り無く思われる様と成ったので、更に一頭の馬を雇い、その馬丁を道案内にし、二頭引きとして走らせたが、道普請(道路工事)の為に、道で無い野原を、迂回しなければ成らない所なども有り、夜の七時に至って、未だアラスに着かない。

 市長は馬丁に問うた。
 「アラスまで、あと何里ある。」
 馬丁は答えた。
 「あと三里《12km》です。八時には着きましょう。」
八時が九時まで掛かっても、進む外は無いのだから、又益々急がせたが、併し市長は怪しんだ。八時に着いて、裁判の間に合うだろうかと。

 孰(いず)れにしろ、裁判は昼間から開かれるので、我が身代わりに立って居る、馬十郎とか言う老人の犯罪は、単に果物を盗んだ丈の事だと言うのだから、その調べは僅(わず)かに二、三時間で済んでしまうだろう。事に依ると、今頃既に済んで居るかも知れない。そうすれば此の様に急ぐのも無益だ。
 無益でも急がなければ成らない。我は我が出来る丈の力を尽くし、そうして間に合わないのなら、それこそは神の御心で、神が何うしても馬十郎を、我が身代わりと為してしまい、私を助けて下さるのだ。

 運を神に任せて急がなければ成らない。彼馬十郎が、果物を盗んだ罪は簡単でも、戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)と言う嫌疑は、簡単では無い。或いは此の嫌疑の為に、何の様に裁判が長びかないとも限らない。夜の九時十時までも開廷して居るかもしれない。
 彼の心は、様々に気遣(づか)って、四方八方に馳せ廻った。けれど彼は毛頭、故(わざ)と馬車を遅くすると言う気は出さなかった。全く急がれる丈急がせた。急がせて、果たして裁判の間に合ううか何うかだろう。

 間に合ったならば何うなるだろう。
 間に合わなかったなら何うなるだろう。
 之れは唯神のみ独り知り給う所だ。
  *   *   *   *   *   *
    *   *   *   *   *   *
 市長がこの様に悶(もが)いて居る間に、病の床に臥(ふ)して居る華子の有様も、又憐れむべきである。市長が煩悶《悩み苦しむこと》し懊悩《悩み悶えること》して明かした夜に、華子は苦しそうな咳のみして明かした。翌朝はズッと容体が悪い。受け持ちの医師は、診察した後で看護婦を次の間に呼んで命じた。

 「後ほど市長がお出でに成ったら、直ぐに私を呼んで下さい。市長に報告せずには置かれない容体です。」
と。併し市長の来る筈は無い。市長は此の時アラスの裁判所を指し、馬車を走らせて居るのだ。
 華子自身も唯市長の来るのが頼みらしい。彼女は苦しい息の下から幾度も看護婦に問うた。
 「もう何時です。」
と。毎日午後の三時には市長が来る。華子は只管(ひたすら)に三時を待つのだ。

 そのうちに漸く三時の鐘は鳴った。華子は寝返る力も無かったのに、此の鐘の音に寝台の上に起き直った。そうして入口の戸をジッと眺めた。市長が来れば誰よりも先にその姿を見認(みと)め度いのであろう。彼女は暫し病苦をさえ忘れたのか、衰えた顔に、折々笑みが見える。唯この様に誠《偽りの無い心》ある人を待つ間のみが、彼女の天国である。けれど市長は来ない。

 凡そ二十分ほど経て、起きて居る力も尽きたか、又その身を横たえた。そうして時の経つに従い、悲しそうに咳をするのである。
 四時も過ぎた。五時も過ぎた。彼女は遂に断念(あきら)めた様に、細い声で呟いた。
 「もう今日限りだのに、ーーー明日は此の世には居ないのに。今日来て下さらないとは、余(あんま)りだワ。」
 彼女の目はもう此の世の光が見えることは少なく、次第に冥府(あのよ)の光が見えて来たのか、その中に咳も稍(や)や止み、虫の泣く様な声で、何やら歌い初めた。聞けば子守歌である。昔娘小雪を抱いて歌ったのであろう。その後は今日まで歌を歌う様な折は無かった。もう心が恍惚(こうこつ)《はっきりしないこと》として、殆(ほと)んど夢路に入って居る。多分は小雪を抱いて、寝かし附ける夢でも見て居るのだろう。

 夢とは云えど、眠って居る訳では無い。その声の優しい中に、何とも言えない悲しみが有る。部屋の隅で聞いて居る看護婦は、思わず涙を催した。声は段々に細って行く。
 余り市長が遅いので、看護婦はその屋敷へ人を使わした。やがて使いの女が帰って来て、部屋の隅で看護婦に囁(ささや)いた。

 「市長は今朝早く馬車に乗り旅行して、行く先は良く分らないが明日で無くては帰らないだろう。何も留守へは言い置いた事が無い」
と。
 此の囁(ささや)きが聞こえたのか、眠った様に見えて居た華子は忽ち聞き咎めた。
 「市長さんが何う成さったと言うのです。」
 真実を聞かせて明日で無ければ帰らないと言っては、何れほどか失望するだろう。看護婦は当惑した。けれど看護婦と言う様な、慈善の業に委ねる身が、まさかに病人に嘘を聞かせると言う様な、罪の深い事は出来ない。直ちに寝台の所に行って慰める様に、

 「市長さんは旅に出られたと言う事です。」
 華子は合点が行った様に、そして嬉しさに耐えられない様に又起き直って、
 「オオ本当に親切な市長さんです。小雪を連れに行って下さったのです。是で私は屹度(きっと)病気が直りますよ。オオ、嬉しい。小雪が来るなら私は素直にお薬も頂きます。貴女のお言葉をも守ります。」
と言い、看護婦の気遣(きづかっ)たのとは反対に、全く心も引き立った様に、手を挙げて天を拝んだ。

 嗚呼、世に子を思う親の心より誠《偽りのない心》なる者が有ろうか。人は之が為に病み、之が為に癒える。親子の情は人間の命の綱である。華子の玉の緒は唯此の綱に繋(つな)がれるのだ。若しも市長が小雪を連れずに帰って来る様な事でも有れば何うだろう。華子の命はその時に尽きるのでは無かろうか。


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