巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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aamujyou31

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   三十一   重懲役終身に

 此の夜、華子の所へ回診に来た医師は、華子の容体の変わって居るのに驚いた。今朝見た時は殆ど晩まで持つだろうかと気遣(づか)われる程で有ったのに、今は熱も下がり、呼吸の調子も揃って居る。その上に当人の心に何か嬉しい所の有るかの様にも見える。
 全く市長が我が娘小雪を連れて来て呉れる事と信じて、その喜びに全身が力を得たのだ。心の引き立った為に、一時病を忘れたのだ。但し何時まで忘れて居る事が出来るだろう。
 *     *       *      *       
    *      *      *      *   
 それは扨(さ)て置き、市長の馬車は遂にアラスの町に着いた。丁度夜の八時であった。市長は或宿屋の前で馬車を降り、賃銭を払って、馭者と第二の馬とを帰し、自分の初めから雇って来た馬は、自分で引いてその宿屋の馬屋へ預けた。此の時まで彼は無言で有ったが、初めて口を開き馬屋の番人に問うた。

 「何うだろう、此の馬は明朝直ぐに又、旅行の役に立つだろうか。」
と彼は来て早々に、早や帰る事を考えて居る。
 番人は答えた。
 「余程疲れて居ますから、二日は休ませなければ成らないでしょう。」
と。

  市長は直ぐに宿屋の店に入って行って又問うた。
  「郵便馬車の出る所は何処だろう。」
と。此の頃の郵便馬車は、旅客の便乗を許したから、彼はそれに乗る積りなんだ。やがて店の者に案内せられて、郵便馬車の出発所へ行き、

 「明朝フアノールの方へ立つ一番の馬車は何時だ。」
と聞き、午前の一時だとの返事得て、更にその馬車に便乗出来るかと問い、まだ一人分だけ空席が残って居ると聞き、やっと安心した様に、
 「それではその空席を約束する。」
と言って、即座に代価を払ってしまった。
 こうして置けば間違いは無い。

 嗚呼、何だか彼の所業は、まるで全く逃げ支度の様だ。
 急ぎの用の為に此の地へ来て、まだ一言もその用事には、触れもしないで、先ず帰ることにを苦労して居る。
 彼は帰る事が出来る者と信じて居るのだろうか。自分の身代わりの馬十郎を救えば、自分の身は何うなるか分からない。自首して出る人が、先ず帰りの用意とは、少し不審と言わなければ成らない。

 是で見ると彼の心は未だ決して居る訳では無い。今日一日、馬車の中で考えた筈なのに、昨夜一夜、我が家で考え明かした時と同じく、何の決定にも達せずして、唯裁判所へ行って見る心なのだろうか。真に全く運を天に任すと言うより外に、彼の考えは出来て居ない。

 彼は是より徒(いたずら)に市中を徘徊した。多分裁判所を捜してだろう。探したとて、知らぬ土地で分かる筈が無い。誰か人に聞けば好いのに、彼は誰にも聞かない。随分聞くべき人に逢うのに、厳重に口を塞いで居るのは、気が進まないのだろうか。此の様にして天運を待つのだろうか。けれど遂に聞いた。それは充分に四辺(あたり)を見廻した上で、提灯を提(さ)げて来た一人の老人に向かい、

 「此の地の裁判所は何所でしょう。」
と。聞かれた人は親切だ。
 「裁判所は今普請中で、仮に市庁の楼上を充ててあるのです。市庁は丁度私が行く方角ですから、一緒にお出でなさい。」
と答えた。

 市長は此の人の後に付き、無言で歩んだが、数百メートル行くと、二階の窓に灯光(あかり)の指して居る大きな建物の前に出た。その人は告げた。
 「アア貴方は仕合せです。未だ裁判が開かれて居ます。アレ二階の灯をご覧なさい。あれが仮の法廷です。」
と言い、更に
 「貴方は証人ですか、傍聴ですか。」
と問うた。

 市長は口籠りつつ、
 「ナニ弁護士に用事が有るのです。」
と、聞こえないほどの低い声で答えた。
 是で見ると、彼れは自分がここへ来た事を、誰にも知られ度く無いと見える。自首するならば直ぐに世間中へ広がるのに、今更何を気兼ねするのだろう。その人は又言った。

 「アア弁護士の溜まりならば、真ん中の階段を上って行けば好いのです。」
 彼は言葉に従って中に入り、真ん中の階段を登ったが、上の廊下で弁護士らしい服を着けた人に逢った。直ぐに問うた。単に
 「未だ終わりませんか。」
と、弁護士は何事と問い返しもせずに、
 「イイエ終わりました。」

 「終わりました。」
の一言が市長の耳には何の様に響いただろう。彼は思わずも、
 「エ、エ」
と叫んだ。
 早や裁判が終わったのか。馬十郎は戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)の身代わりとは成ってしまったのか。弁護士は此の叫び声の鋭さに気が附いて、

 「ヤ、貴方は被告の親戚か何かですか。」
 市長「イイエ、誰にも関係は無いのです。シテ宣告も済みましたか。」
 弁護士「無論です。何も宣告だけを延期する謂(いわ)れがが有りませんもの。」
 市長「矢っ張り。其れではーーーー重懲役に。」
 弁護士「そうです。重懲役終身に。」

 廊下の灯光(あかり)が暗くて、此の時良く市長の顔の見えなかったのは幸いである。
 彼は咽喉(喉)でも絞められた様な声で、殆んど聞き取り兼ねるほど低い声で、
 「愈々(いよいよ)当人に違い無いと。。。。。イヤ人違いで無いと定まりまして。」
 弁護士は蒼蠅(うる)さそうに、

 「ナニ人違いで有るの無いのと言う問題は、初めから無いのです。極明白な事件で、陪審員なども、唯予謀の有ったと言う点に不同意を唱えた丈です。何しろ彼女が自分の児を殺したのは、確実ですから。故殺として終身です。」
 何だか話が祖語して居る様でもある。

 市長「エ、彼女、では女ですか。」
 弁護士「無論です。貧家の妻が自分の児を殺したのです。私の弁護を託されたのは、此の事件丈ですが。貴方は別の件をお尋ねですか。」
 市長は曖昧に、
 「イイエ、けれど終わったなら何故あの部屋にまだ灯光(あかり)が附いて居ますか。」

 弁護士「あれはその次に、今から二時間ほど前に開廷した別の件です。」
 市長「エ、別の件、別の件、何の様な。」
 弁護士「是も極簡単ですよ。詰まらない窃盗の類でしょう。何でも前科者だと言う事で。何とか難しい名の爺ですが。その顔を見た丈で、有罪と分かって居ます。」

 此の件だ。此の件だ。此の件が身代わりたる馬十郎の公判に極まって居る。
 市長「傍聴出来ましょうか。」
 弁護士「イヤ満員の様ですから。誰か出て来る人の有るのを待って、その人の代わりに入る外は無いでしょう。」
 市長「何の戸口から入りますか。」
 弁護士「彼許(あそこ)の最も広い戸口から。」
と、言い捨てて弁護士は去った。

 僅かの間の問答では有ったけれど、市長は弁護士の一語一語に火水の責め苦を受ける様に感じた。そうして最後に、未だ馬十郎の公判が終わらずにあることを合点し得て、深い深い息を吐いた。けれどその息が安心な為に出たのか、当惑の為に出たのかは、自分の心にも分からない。





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