aamujyou32
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
三十二 合議室
急ぎ急いで来た甲斐が有った。先ず馬十郎の公判の間には合った。
間に合ったのが嬉しいのか悲しいのか、市長は自分で自分の心が分からない。
間に合ったからと言って、直ぐに傍聴席へ行こうともしない。行っても傍聴席は塞がって居ると今しも弁護士が告げた。そうとすれば益々彼は、早く傍聴席の出入口に行き、中から来る人を見逃さない様に見張って居なけれ成らない筈だ。
けれど彼はそうはしない。まだ廊下や弁護士溜まりの辺を徘徊して、徒(いたずら)に人の噂などを聞いて居る。勿論裁判所の事だから、夜とは言えど、其処此所(そこここ)に多少の人が群れて居る。互いに話す所は裁判の事ばかりだ。彼は其等の言葉を聞き集めて、兎も角も馬十郎なる者が、果物を盗んだと言う元の嫌疑は、証拠が無い為に晴れたけれど、それとは別に起こった、前科者と言う嫌疑の為に、殆ど遁れ難い場合に迫って居る事が分かった。既に証人の陳述や検事の論告も、一通りは済んで、此れから弁護士の弁論に移ると言う所らしい。
是だけ分かれば、もう此の上に聞き合わせる箇条は無い。直ぐに傍聴席へ入ら無い訳には行か無い。彼れは詮方なくと言う様子で傍聴席の入口に進んだ。ここには警吏が立って居る。
彼は問うた。
「入る事は出来ませんか。」
警吏「出来ません。」
市長「誰か出て来る人は無いでしょうか。」
警吏「有りません。今休憩が済んで戸を閉じた所ですから、もう裁判の終わるまで、此の戸は開きません。」
市長「傍聴席に空席は無いのですか。」
警吏「ハイ、一席も無いのです。」
扨(さ)てはこの様に傍聴席が満員と為って居るのが、天の助けでは無いだろうかと又思った。天の助けを頼む外に、助かるべき道が無いのだから、自然に心がその方向へ向くのである。彼は嘆息して去ろうとした。
警吏は又言った。
「お待ち成さいよ。裁判官の席の背後(うしろ)に、特別席が三個だけ空いて居ます。けれど是は公職を持った人の為に、裁判官が特別に取り除けて有るのですから、官吏で無い人は仕方が無いのです。」
扨(さ)ては官吏ならば入れられるのだ。市長は官吏では無いだろうか。市長の職は公職では無いだろうか。
警吏は、この人が酷(ひど)く心配そうにして居る様子を見て、
「官名を肩書にした名刺を、裁判官に送れば多分入れて呉れましょうけれど。」
誰かの名刺でも貰って来いとの意味が分かる。けれど市長はその意味を悟る事が出来ないのか、充分には聞き取ら無い振りでここを去った。そうして悄々(すごすご)と元来た廊下へ引き返し、階段を降り始めた。
アア彼れは、非常な思いで数十里の道を故々(わざわざ)来て、今は傍聴席の塞がって居る為に、空しく帰って行くのだろうか。それで心が済むだろうか。傍聴席は塞がって居るとしても、必ずしも入り込む道の無いで事は無い、警吏の言葉で分かって居る。彼は一段下(くだ)っては考え、考えては又下り、終に階段の中程へ来た。ここから降る道が左右二筋に分かれて居る。彼は右へも左へも降りる事が出来ない。
暫(しばら)く欄干に靠(もた)れて、額に手を当てたが、額には脂汗が漲(みなぎ)って居る。彼は静かに紙入れを取り出した。その中から名刺を出した。そうしてその表面へ鉛筆で何やらん認(したた)めた。何しても彼は立ち去る事が出来ないのだ。裁判官に名刺を送って、特別室に入れて貰う気に成ったのだ。
此の名刺を持って、再び彼は警吏の前に引き返した。警吏は彼を待たせて置き、内に入って名刺を裁判官に取り次いだが、裁判官はその名刺の表面を見て、聊(いささ)か意外の思いを為した様子である。
モント・ファーメルの市長斑井、此の名は数年来、徳望のシンボルとして此の土地へまで聞こえて居る。誰でも尊敬しない者は無い。裁判官は此の人の来臨を得て、職務の上に光栄を加えた様に感じた。テーブルの陰から、その名刺(なふだ)を同僚の手から手へ廻し、終に裁判官の手にまで伝わった。孰(いず)れも恭々(うやうや)しく頷(うなず)く様に見えた。やがて裁判官は自分の名刺を出し、その表に
「敬意を以て」
と記入し警吏に渡した。
警吏は之を持って来て市長に渡し、謹んで、
「御案内致しましょう」
と請じた。市長の運命は是で定まった。もう躊躇する余地が無い。
彼は警吏に従って中に入った。警吏は彼を横手の方へ導いて、又廊下を過ぎ、又戸を開き、余り広くない一室へ入れ、
「ここが裁判官の合議室です。此の部屋の戸を開けば、裁判官の後ろへ出られます。」
と言い、一礼して立ち去った。
市長は合議室の中に唯一人立った。見廻せば部屋の真ん中にテーブルが有って、その上に二個の燭台を立て、蝋燭の火が低く燃えて居る。此の部屋で、幾多の人の運命が天秤に掛けられて、決せられるのだ。その事務に良く似合う様に部屋の中は荘重で、且つ何と無く陰気である。彼自身も、今は運命を天秤に掛けられて居る者では無いだろうか。天秤の傾く所は死か活(かつ)か。彼れ自らも知ら無いけれど、之を思うと、急に総身が剛(こは)ばって、彼は進みも退きも出来なかった。
若し進んで戸を開けば、今彼の身代わりは、死活の境に彷徨(さまよ)って居る公判廷である。彼若し耳を澄まして聞けば、戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)と言う彼の名も聞こえるだろう。彼の旧悪を数え挙げる声も、引続いて聞こえるに違いない。更に彼の身代わりに立って、言い開きの立たない為、絶望に呻吟(しんぎん)《うめき苦しむ》する馬十郎の声が聞こえる様な事でも有れば、彼の耳には何の様に響くだろう。
裁判の恐ろしさは、彼が今もなお忘れる事が出来ない所である。唯戸を一枚隔てて、その恐ろしい裁判が進行して居るかと思うと、彼は又気が挫けた。イヤ挫けたのでは無い。余りの恐ろしさに何も彼も打ち忘れた。彼はもう考える事も出来ない。彼は昨夜から二十四時間の余り、一切れの麺麭(ぱん)も食べず、全く身体を栄養する道を絶って、而かも心を旋風(つむじかぜ)の様に掻乱(かきみだ)して居る。是は人間の耐えられる事では無い。
彼は何の感じも無くなった様に、部屋の一方に立ったまま、只蹙(すく)んで居たが、良(やや)あって、目に着いたのは、公判廷へ入り行く所に在る、戸の引手である。手摺れて光る真鍮(しんちゅう)のその色が、異様に眼を射て、彼の痺(しび)れ掛けた神経を、攪擾(かきま)ぜた。彼は漸く我に返る心地がすると共に、先に立つのは恐れである。此の引手を一つ廻せば、戎瓦戎の裁判されて居る所だと、唯だこう思う一念の恐ろしさに、忽ち身を躍らせて、初めに入って来た戸の方に振り向き、之を開いて元の廊下へ逃げ出した。彼の此の挙動は、殆ど発狂の間際と言う者では無かろうか。
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