巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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aamujyou33

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳      

   三十三    傍聴席 一

 運命とは何であろう。目には見えないけれど、目に見える縄の様に、人を金縛りに縛ってしまう。一旦之れに縛られたら、自分で自分の心に従う事が出来ない。唯だ運命の為すがままに弄(もてあそ)ばれる許(ばか)りだ。今彼斑井市長の様な状況が、即ち運命に縛られて居るのだ。十重にも二十重にも。

 彼は合議室から公判廷に入る戸一枚を開く事が出来ない。開こうとして、却(かえ)って逃げ去った。そうして又も廊下を、狂う獣の様に馳せ廻った。此の様に逃げたからと言って、逃げ果(おお)せる事は出来ない。矢張り運命に縛られて居る。馳せて、馳せて、殆んど魂が尽きたのは、稍々(やや)半時も立って後である。

 彼は冷たい壁に靠(もた)れ、声を出さずに叫んで、悔しがった。自分の身に降り下る運命の余りに意地悪なのを恨んだ。けれどその意地悪に従う外に、何の道も無い。彼は身も心も全く頽(くず)れた。力が尽きて悄(しょ)げ返って、今度は蹌踉(よろめ)きながら、又も合議室の方へ引き返した。宛(あたか)も警官に抵抗して、力尽きて遂に捕らえられた罪人が、仕方無く引き立てられて行く様な者である。

 彼は運命に抵抗したのだ。到頭力が尽きたのだ。そうして厭々(いやいや)引き立てられて行くのだ。運命の手は、人の心の中に入って技をするのだから、目には見え無いが力が強い。本当に恐るべしだ。
 再び合議室に彼は入った。今度はもう躊躇しない筈であるけれど、彼の真鍮(しんちゅう)の引手が目に光ると共に躊躇した。身震いした。此の引き手に手を掛けるのが、即ち地獄の戸を開くのだと思うと、何うしても手が延びない。

 宛も狼に睨まれた小羊が、睨む狼の目から眼を離す事が出来ない様に、彼は引手を見詰めたまま立った。この様にして又幾時を空しく過ごす事やらと、気遣われたが、その中に恐れをも何事をも忘れた様に、引手に手を掛けた。運命が彼を駆るのだろう。恐らく彼は、自分が引手を握った事さえ知らないだろう。この様にして、その戸を引き開けて中に入った。

 中は広い広い公判廷である。もうここに入る以上は、悶(もが)いても仕方が無い。実は悶(もが)く余地も無いのだ。
 彼は我が後の戸を閉めた後、初めて自分が最後の修羅場に入ったことに気付いた。彼れの身は機械の様だ。心あって動くのでは無く、動く外は無い様に押し付けられて動くのだ。彼は立ったまま傍聴席を眺めたが、満目唯だ靄(もや)の籠めた様に、満耳(まじ)唯だ響きに埋められた様に、視(み)ても見え無い。聴いても聞こえ無い。

 渾々(こんこん)とし漠々として闇の様な景色が横たわるのみだ。立つ中に靄は次第に人の顔と成り、響きは個々の声と為った。アア判事も居る。検事も居る。弁護士も警吏も傍聴人も、居るは居るけれど、単に総体が一団と為って人間の最も無情な法律と言う者と、天道の最も厳格な裁判と言う者を、実物の上に描き出して居る。是ほどの物凄い感動が又と有ろうか。

 彼は又機械的に腰を卸し、見廻して又見廻したが、此の総体の大感動が、場中の唯だ一点に集中して居る。判事の下、横木の前に、左右から二人の憲兵に挟まれて、一人の男がが立って居る。満場の中心は是だ。
 此の男が彼の男である。

 市長は此の男を見はしない。此の男が直ぐに市長の目に見えた。市長の目には前以て此の男の立つ所を知って居たかの様に、一直線にその所を射てその所に定まった。市長は他人を見る心地がしない。自分で自分が裁判官の前に引き出されて居るのを見る様だ。

 成るほど姿と容(かたち)とが自分と同じ事である。但し今の自分は、富貴の為に立派である。彼れは窶(やつ)れて居る。自分は若やいで居る。彼は老いて居る。自分は髪の毛も撫で附けて居るけれど、蓬々(ぼうぼう)たる彼の頭髪は自分が苦労して居た頃と、何の相違も無い。彼の垢(あか)の付いた襤褸(ぼろ)の着物は、今から八年前、自分が十有九年の獄中で、深く心に刻み込んだ人間に対する恨みと憎しみとを以て、ダインの市(まち)に入り込み、宿屋の戸を叩いた時と殆ど同じ者である。

 こうう思うと市長の身には、ゾッとする様な厭(いま)わしい念が頭の上から足の爪先まで満ち渡った。アア私は、再び此の男と同じ境遇に立ち返らなければ成らないだろうか。此の男は最早六十歳以上にも見える。顔が粗末で、遅鈍で、そうして非常に恐れを帯びて居る。人間の耐える事が出来る境遇とは思われない。

 裁判官は斑井市長の入って来たのを知った。恭(うやうや)しく黙礼をした。中に検察官は一両度フアーメルへ出張して、市長と言葉をも交えた事が有る。恭しさの中に、是見よがしの親しさをも加味して黙礼した、市長の方は是等の歓迎が、充分には心に移らず、何事も唯だ夢やら現(うつつ)やら分からない様に感じた。

 是れ夢か。是れ現か。裁判官の様子、書記の様子、憲兵の様子、傍聴人一同が物知りたそうに、被告の顔を差し窺(のぞ)く様子、総て私が昔引き出された法廷の有様の通りである。アア夢で無い。自分の身が、現実に此の有様に立ち返らなければ成らないのだ。自分の罪を自首する為に此の裁判所へ出たのだから。再び法廷に立つ外は無い。法廷に立つ其の次は宣告されるのだ。

 その次は牢に入るのだ。その次は、アアその次は、次第に心の移り行くに連れ、殆んど全く忘れ掛けて居た、二十七年前より以来の物事が、目(ま)の当たりに見る様に、目の前に浮かび出た。彼は見たくないと思って目を閉じて、そうして本心の底の底の目(ま)の当たりから打ち叫んだ。
 「決して、決して」
と。

 決してとは、決して再び此の有様には、立ち返らないと決心したのである。何してその恐ろしい境遇へ、此の年に成って立ち返る事が出来る者か。決して決して、それは出来ない。自首と言う事はもう根こそぎ取り消した。
 とは言え、彼は物狂わしい程に心が苦しい。

 彼の目の前には、彼自身とも言うべき者が、彼の恐れるその境遇に立って居て、その境遇へ押落される所である。その者は彼の本名を以て、戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)と呼ばれて居る。自分の生涯の最暗黒な歴史が、自分の影身に依り、再び実演せられるとは、是が運命の悪戯(いたずら)と言う者だろうか。悪戯(いたずら)としては又余りに無情である。





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