aamujyou37
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
三十七 傍聴席 五
検事に向かったまま、戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)は語を継いだ。
「貴方がたは非常な過ちに陥ろうとして居るのです。早くこの被告を放免なさい。私は自分の義務として打ち明けなければ成りません。ツーロンに居た戎瓦戎と言う不幸な囚人は私です。私です。私自身の外に此の事実を知る者は有りませんけれど、上(かみ)には天が見張って居ます。
私は自白するのが天への務めです。何うか私をお捕らえ下さい。併し私は申します。力の及ぶ限りは善を行おうと勉めました。戎瓦戎の名を捨てて、変名を用い、財産を作って市長にまで取り立てられ、何うかして善人の仲間に入いろう、そればかりを苦心しましたけれど、それは到底出来ない事だったと見えます。再び囚人の仲間へ帰らなければ成らない事に成りました。
私が何の様な心で何をしたかは、ここで申さなくても分かる時には、自ずから分かりましょうが、全く私しは、ダインの高僧の家で盗賊をも働きました。その土地の原野で、弱い少年に対して、追剥(おいはぎ)をも致しました。誠に私の様な汚れた者は、天を恨む権利も無く、世人に忠告する資格も有りませんけれど、、一言ここに言って置きます。
不幸が人を害するのです。監獄が悪人を作るのです。監獄に入れられる前は、私は無教育な農夫でした。監獄が私を変化したのです。愚かな田舎者が、残忍な悪人と為りました。牢を出て後、幸いに深い親切と寛大な恩愛を受けました為め、人間らしい了見に立ち返る気に成りましたが、全く過酷な取り扱いは、人を悪にし、慈悲は悪人をも感化して善と為します。
イヤこの様な事を申しても、何の事だかお分かりには成りますまいが、私の家を捜索して下されば、今以て牢を出た時の戎瓦戎の衣服と、彼の少年から奪ったその銀貨とが有ります。是だけで私を捕縛なさるに充分でしょう。検事閣下は首をお振りなさる。未だ信じに成りませんか。それは余(あんま)り残念です。何が何でも馬十郎とやら言う、之なる被告を罰しては成りません。アア三人の証人まで、誠の戎瓦戎たる私の顔を、認める事が出来ないとは情け無い。若し蛇兵太が居て呉れれば、直ぐに認めて呉れますのに。」
と言って、真に残念でならない様に、法廷を見廻した。
その言葉とその挙動とに現れた、熱心な誠意と痛々しい様な哀れさは、唯だ想像が出来るのみだ。言葉に伝えることは迚(とて)も出来ない。
見廻して見ても蛇兵太は居ない。成ほど彼れが居たならば、戎瓦戎の此の言葉を信じもするだろう。
戎瓦戎は又見廻して、忽ち思い附いた様に、三証人に打ち向かい、
「オオ武ラバットよ。お前は忘れたのか、俺と一緒にツーロンの牢に居た時、市松格子に染め分けたズボン吊りを掛けて自慢して居た事を。」
武ラパットは驚いて戎瓦戎の姿を頭から足まで見、全く恐ろしさに耐えられない様に戦慄した。次に戎瓦戎は仙ニルドーに向かい、
「お前は腕に彫ってある自分の名前を消す為に、炭の火を浴び、その焼け痕が肩の下に残って居るでは無いか。」
仙ニルドーは唯だ呆れて、
「ハテなその通りだ。」
と呟いた。
更に戎は古シエベルに向かい、
「お前は皇帝拿翁(ナポレオン)がカンに上陸した年月を二の腕に彫附けて居たが、今でも千八百十五年三月一日の文字が読めるだろう。確かに其の傍に黶(ほくろ)も有った。ドレ左の袖口を捲(まく)ってお見せ。」
古シエベルは、何にも言わない。小児の様に従順に袖口を捲(まく)り示した。直ぐに憲兵が燈(ランプ)を持って来て、その腕を検めた。明らかに今言った年月日の文字が読めた。此の時戎瓦戎は傍聴者に向かい、又裁判官に向かい、異様に笑んだ。その笑みの悲しそうな様は、見た人の今もまだ眼に残る心地がする所である。勝誇った笑みで、そうして絶望する笑みであった。吁(ああ)不幸な戎瓦戎よ。
彼はその笑みと共に言った。
「全く、御覧の通りです。私が本当の戎瓦戎です。もう確かです。」
ここに至っては、最早や全法廷に判事も無い、検事も無い、憲兵も無い。只だ此の一個の点に集中した眼と、握り詰めた汗と、高く打つ動悸とのみである。誰も彼も自分の位置を忘れて、我知らず、熱心な見物人と為ってしまった。
全く暗い裁判の上に、明り煌々(こうこう)の稲妻が閃(ひらめ)き射た様な者である。納得すまいとしても、納得せずには居られない。名誉高く徳高き一世の慈善的事業家斑井市長が、前囚人の戎瓦戎であったのだ。罪なき人が、自分の身代わりと為って刑せられるのを、知らぬ顔で見るに忍びず、我が旧悪を名乗る為に、故々(わざわざ)ここへ出て来たのだ。
此の様な辛い悲しい行いが、又と有ろうか。此の様な大いなる犠牲が、人を感動せしめずに止む者では無い。此の暫しの間の感動は、全く人々をして、呼吸を継ぐ事すら出来ないほどにした。
やがて戎瓦戎が満場の静けさを破った。
「最早、此の上私は法廷の時間をお妨げ致しません。未だ捕縛の命令が下りませんから、立ち去ります。片付けて置かなければ成らない事務も、沢山に有りますから。
併し何時でも、裁判所のご都合の宜しき時に、捕縛して戴きましょう。私しの住所は、幾度かお出でに成った検事閣下が御存知です。」
是だけの言葉を残し、出口を指して進んだ。誰一人、手を出して彼を遮ろうとはしない。彼の前には、先ほどその席から下って来た時と同じく、自ずから道が開けた。彼が戸にまで近づくと、誰が開いたか知らないけれど、自ずから戸が開いた。大決心の進む所は、到る処無人の境の如きである。彼は戸を出ようとして、又振り向き、
「私は謹んで法律の命令を待って居ます。」
と言い、更に傍聴人の方に向かい、
「皆様はきっと憐れむべき奴と思(おぼ)し召しましょうけれど、今の私は、此事を隠そうと思案した時の私に比べ、羨むべきほど幸福です。」
実にそうであろう。そうで無くてはならない。彼はここで殆ど大悟徹底した様な者だ。もう此の後、何の様な事をしたとしても、又何の様な場合に落ちたとしても、迷い恐れる様な事は無いだろう。
更に彼は言い足した。
「とは言え、何方(どちら)かと言えば、一切此の様な事柄が起こらずに済む方を、私は望みました。」
全く之が心のままである。隠しもしない。飾りもしない。彼は神の退く様に退いて去った。
一時間と経たないうちに、何所かの馬の骨、馬十郎は放免された。彼はその自ら言った通り、
「本当に驚いた。」
世間の人が、皆、気が違ったのかと怪しむ様な顔で、彼は引き退(下)がった。
この彼の放免が、即ち本当の戎瓦戎の、捕縛される定めとは為るのである。
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