巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十三  むかし話

 ここで一回の昔話をして置かなければならない。時は千八百十五年六月の十八日、歴史を読む人は知って居るだろう。此の日は千古の怪傑拿翁(ナポレオン)が最後の大敗北を遂げた水嘍(ワーテルロー)の激戦の日である。本篇の最初に記した戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)の初めての出獄よりも、更に三月ほど前である。

 戦争の終わった水嘍(ワーテルロー)の野に、早や日は暮れて、夏の夜の月が屍(しかばね)の山、血の池を照らして居る。昼間打連(うちしき)った銃砲の煙が、まだ消えもやらず、幾里四方を立ち籠めている中に、所々英独聯合軍の戌兵(じゅへい)《守備兵》の焚く篝火(かがりび)も見え、或所には未だ燃えて居る家なども有る。真に物凄い光景とは是である。昔の人は古戦場をば、人間凄涼(せいりょう)《心や情景が物淋しい》の極みとは言っているが、古戦場よりも、死骸の未だ片付かない、新戦場の方が何れほど無残に見えるか分からない。

 此の無残な光景の中をば、人目を忍び忍んで、這って歩いて居る人が有るとは、又不思議では無いか。
 彼は何をして居るのか、此所の死骸、彼処(かしこ)の死骸をと検め、時々は番兵や憲兵の通る足音に耳を澄まして、或いは自分の身を横たえ、死骸の真似をして足音の通り過ぎるのを待ち、或いは匍匐(よつんばい)になって、行く手を透かして見るなど、其れは其れは用心が綿密である。

 果たして何の為だろう。若(も)し敵情を探る為ならば、余程豪胆な軍事探偵である。若し又其の他の指命の為ならば、天晴の勇士と言わなければならない。所がそうでは無い。その様な褒めるべく感ずるべきでは無い。彼は泥坊だ。死骸の身に着いて居る金品を盗むのだ。或る国には火事場泥棒と言う、ずるい商売も有る相だが、其の又上を越す戦場泥坊とは、何と驚いた職業では無いか。

 何の様な人間のする事か。どのみち兵士の古手か何かで有ろうが、その顔を見て遣(や)り度い。
 彼は今しも俯伏(うつぷ)して、とある死骸の指から金の指輪を抜き取って、あらかじめ用意して居る、脇下の袋の中に納めた。そうして匍匐(よつんばい)のままで、行く手を眺め、一歩前に出ようとすると、背後から着物の端を捕らえて引く者が有る様に感じた。流石の戦場泥坊も、之にはゾッとした。けれど直ぐに気を鎮(しず)め、静かに背後を振り返り見ると、今しも指輪を抜き取ったその手が、自分の裳(すそ)の方に纏(まつ)わって居る。
 
 彼は呟いた。
 「何だ憲兵かと思って肝を冷やしたら幽霊だ。幽霊に捕らえられるのは、先ず気易い。」
 此の様な際にも、此の様な図々しい言葉を吐くとは、成程、此の気で無ければ、此の商売は出来ない筈だ。彼は振り払って去ろうとしたが、思い直した様に、

 「待てよ。金の指輪を嵌めて居るからは、士官以上だぞ。まだ稼ぎが有るかも知れない。」
と呟き、更に振り返って、其の死骸を、他の死骸の下から引き出した。勿論血だらけの顔だから、月の光にも、良くは分からないが、肩に金の綬(ふさ)の掛かって居る所は確かに佐官だ。彼は其の胸を探って、金時計を探り当てた。喜んで之れを自分の袋へ転居させた。次には死骸の衣嚢(かくし)《ポッケット》を探った。ここには、軽く無い財布が有った。之をも同じく転居させ、
 「アア思ったより裕福だったぞ。」
と言い、再び這って去ろうとすると、死骸の口に声が有った。

 「有難う。」
と謝する言葉が明らかに聞き取られた。
アア此の人は未だ死に切っては居ないのだ。自分の金時計を盗まれるのを、半死半生の中を介抱を受けるのだと思い、謝する言葉を吐いて居る。泥坊は返事も出なかったが、士官は更に虫の息で、

 「軍は何方(どっち)が勝ちました。」
 泥坊「英国方が勝ちました。」
 士官「エエ、残念」
と言ったが、併し目は開かない。全くそれ丈の気力も無いのだ。そうして更に、
 「オオ私の胸に金時計が有ります。衣嚢(かくし)の中に財布が有ります。それを貴方に上げますから、何うぞ取り出して下さい。」

 真逆(まさか)に、
 「もう戴きました。」
とは答えない。唯だ従順に
 「ハイ」
と答え、言葉のままに胸と衣嚢(かくし)の中とを探り、
 「もう有りませんよ。」
 士官「では盗まれたのだ。私を蘇生(いきかえ)らせて呉れたお礼に、貴方へ差し上げようと思いましたのに。」

 果たして此の士官が、真に蘇生(生き返り)果(おお)せるか否かは、未だ分からない。折しも遠くの方から、番兵の近づく様な足音が聞こえたので、泥坊は立とうとした。
 士官「アア命の親、何うかお名前を聞かせて下さい。」
 泥坊は当惑げだけれど、小声で、
 「貴方と同じく仏国方です。もう番兵が来ますから、話しては居られません。先ず貴方だけは助けて上げましたから、後は御自分で逃げられる丈お逃げなさい。」

 身動きさへも出来ない者に、逃げよとは無理である。
 士官「貴方の階級は」
 泥坊「軍曹です。」
 士官「お名前は」
 泥坊「手鳴田と申します。」

 アア是れが手鳴田軍曹か。後に華子の娘小雪を預った、軍曹旅館の主人手鳴田が即ち此の戦場泥坊である。唯此の一事で、彼が何の様な人間かと言う事は分かって居る。
 士官「有難い。手鳴田軍曹、此のお名はもう忘れません。私の名も云って置きましょう。少佐本田圓(まるし)と言うのです。」

 手鳴田軍曹「ここで若し見付かれば、私は敵の手で射殺されますから。是れで御免を蒙ります。」
と言い、獲物に膨れた袋を腋(わき)に挟み、何所(いずこ)とも無く逃げてしまった。




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