巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十五  獄中の苦役

 何所に大金を隠したかは、分かる時が来るまでは分からない者として置いて、それにしても、まあ戎瓦戎は、再びツーロンの獄へ、今度は終身囚として入れられ、終身囚である印しに、その真っ白な白髪頭へ青い帽子を被(かぶ)せられ、赤い着る物の襟には、九千四百三十号と言う番号札を縫い付けられた。時は千八百二十三年の八月であった。

 序(ついで)にここで言って置くが、此の戎瓦戎の捕縛と共に、あれほど繁昌したモントリウルの市(まち)は全く繁昌を失った。丁度亞歴山(アレキサンドル)の死と共に、その王国が瓦解した様な者だ。王の下に附いて居た大将達が、銘々権威を争った様に、斑井父老の使って居た職長どもが、銘々に利益争いを競争して、高大な製造所も少しの間に閉場する事に成った。

 戎が斑井父老と言い、斑井市長とまで言われて居た頃は、製造の目的が、唯だ良い品物を作るのに在ったけれど、戎が去って後は、その目的が利益を得ると言う方へ傾いた。それだから段々と品が悪くなった。評判が落ちた。買い手が減った。注文が杜絶(とだ)えた。もう繁昌する筈が無い。

 憐れ一時に栄華を極めたモントリウル市は、元の通り海岸の淋しい駅場とは為って、大蔵大臣が租税を取り立てるのに、他の駅と同じように、骨の折れるに立ち至った。是れで、偉人の有る無しが、何れほど社会の幸不幸に関するかと言う事とが分かる。
  *   *   *   *   *   *   *
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 戎がツーロンの獄に戻ってから三月の後、即ち千八百二十三年の十月の末に、地中海艦隊の軍艦オリオン号が、修繕の為にツーロンの港に入ったが、軍艦を見ると言う事は、此の土地の人々が最も好む所で、毎日波止場の辺へ、人の黒山を築いた。紳士貴婦人までも出かけて行った。或る日の昼頃、大帆柱の頂辺(てっぺん)へ上って働いて居た老水兵が、猿も木から落ちると言う通り、激しい風に吹き飛ばされ、その頂辺から落ちて、漸くに帆柱の綱に握(つか)まって、空中に身を支えた。

 身を支えたとは言う者の、縄一筋の端を捕らえて、空中へぶら下がって居るのだから、何時まで支えて居られる者では無い。手の力が疲れて来れば、直ぐに逆巻く波の中へ落ちて、身体が砕けて巻き込まれる。彼は何うかその縄を手繰(たぐ)り、帆桁(げた)の上まで攀(よ)じ登ろうとするけれど、風が吹き捲(まく)って、綱が右左に分銅の様に揺れ動き、身体が或時は海の上に行き、在る時は甲板の上に来たりなど、少しも定まらない程だから、攀じ登ることが出来ない。

 その中に段々と力が尽き、必死に悶(もが)く苦しさが、下から見る人の胸へ犇々(ひしひし)と感ぜられた。
 アレよアレよと叫ぶ声が、岸辺の群衆からも起こり、付近の船からも起こった。
 「何うか助けてやる工夫は無いか。」
との声が人々の口から出たけれど、何うにも助け様が無い。

 こうなると当人の辛さは勿論だけれど、身て居る人も実に辛い。代われる者なら代わってやり度いとの同情が、誰の胸にも湧いて出る。けれどその実見殺しにする外は無いとは、余(あんま)り情け無い次第である。

 その中に当人の力が次第に尽きて行く事が良く分る。若し助けるなら、此の咄嗟の間である。此のままで今五分と経れば、たとえ助ける工夫が有ったとにしても、もう遅いのだ。実に危機一髪とはここである。此の一髪の危機に当たり、誰やら一人、猿の様に身軽に帆柱に登った者がある。アア勇士、彼の空中の人を助けに行くのだ。助けようとして、却(かえ)って自分も共に死ぬかも知れない。

 迚(とて)も一人の力で助けられる筈が無い。けれど彼はその様な事には頓着しない様子である。人一人を見殺しにするよりも、自分も共に死ぬのが、まだ忍び易いと思って居るのだろう。彼は危険を危険とも感じない。真に勇士の本性である。

 海陸両側の人々から、
 「危ない、危ない」
との声が、殆ど泣き声の様に湧き起こった。此の声に送られて上って行く彼勇士は、抑(そもそ)も何者だろう。身には赤い服を着け、頭に青い帽子を被(かぶ)って居る。アア彼は懲役人である。しかも終身囚である。此の様な者が軍艦の中に何うして居た。彼は同囚の数人と共に、腰に鉄鎖を付けたまま、朝の程から此の軍艦へ、人足同様に手伝いに雇われて、来て居たのだ。ツーロンの囚人は、毎(いつ)も港へ雇われるのである。

 彼は多くの人々と同じく、空中に懸かれる人の苦しむ様を見るに忍びず、艦長が、
 「誰か助けてやる者は無いか。」
と呟(つぶや)くのを聞いて、直ぐに、
 「私が助けます。」
と断言した。

 そうして艦長の頷(うなづ)くのを見るや否や、彼は工事用の手斧を取るより早く、自分の腰の鎖を叩き切った。その力の強い事は、宛(まる)で腐れ縄をでも切る様に見えたけれど、此の時は誰も気が附かなかった。実際その様な事などに気を附けて居る場合で無かった。けれど後では心附いて噂し合ったと言う事だ。

 彼は上り上って帆桁の所に行き、その上に立って、先ず四辺を見廻したのは、前線の老将が、戦場に立って、先ず遠近高低を見る様な者でも有ろうか。此の時又吹いて来る一陣の風が、彼の終身囚である印しとする、青い帽子を吹き飛ばした。下から現れたのは、真っ白な白髪頭である。  
 見る人は見な驚いた。
 「アレ老人だよ。若者では無いのだよ。」
と。





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