巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou49

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十九  X'節(クリスマス)の夜 三

 小雪の持つ水汲み桶に、手を添えたのは何者だろう。小雪が水を汲んだ後で、何だか暗闇の中に、化物が佇立(たたず)んで居る様に感じた、その化け物だろうか。それとも小雪が、たった今「神様」と言って助けを呼んだ、その神様だろうか。勿論小雪自らも知らない。知らないけれど、唯だ頼もしい。唯だ有難い。兎も角も助けられたのだ。
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 此の同じ日の昼頃の事であった。巴里のホピタル街として知られた、極寂しい界隈に、宿りをでも求めるかと思われる風で、烏鷺(うろ)ついて居る一人の男が有った。頭の毛は真っ白な所を見ると、六十以上かとも思われたが、踏む足の確かな所から、骨組みの堅固で、身の行(こな)し方の非常に敏捷な所を見ると、見掛けより十歳以上も若いだろうと思われた。

 併し孰(いず)れにしても、壮年の人では無い。確かに老人は老人だ。老人ながら人に優れた体格を持って居るのだろう。左の手には、ハンケチに結んだ小さい包みを提げ、右手には有合わせの木の枝を折り取って作った様な、粗末な太い杖(すてっき)を握って居る。大抵の犬は之を見て吠えずに逃げる。

 そうして此の人の衣服(みなり)は先ず貧民である。けれど貧民ならば、余ほど潔癖の貧民だろう。襤褸(ぼろ)に等しい其の着物も、垢じみては居ない。洗濯の上にも洗濯した様な者で、帽子とても擦り切れるほど古いのだけれど、良くブラシが行き届いて居る。賤しい衣服(みなり)では有るけれど、穢いのでは無い。やがて此の人は、街(まち)の隅に隠れた様な、人目に附かない貸二階を借りた。是で先ず身を置く所が出来たと、少し安心した風で、再び町へ出たが、その実此の人の身には、何故だか安心と言う事が無かった。

 絶えず不安心が着き纏(まと)って居た。
 此の頃は丁度国王の路易(るい)十八世が、毎日の様にロイと言う所へ幸(みゆき)する時で有って、二時頃には必ず馬車で此町を通った。此の辺を往来する人は、国王の馬車の音を聞いて少しも怪しまなかった。恰(あたか)も此の人が、二度目に町へ出た所であった。此の人の背後から馬車が追掛ける様に轟いて来た。此の人は、多く此の辺に来慣れた者では無いと見える。

 言わば警察の馬車の音に驚く逃亡人の様に、顔色を変えて背後に向き、其の馬車を見るや否や、身を避けて横町の物陰に隠れた。けれど余り旨(うま)く隠れることが出来なかった。此の日国王の馬車に陪乗して居たのは、時の刑務長官ハーブル侯爵である。侯爵の鋭い眼は、早くも身を避けた此の人の後姿を認め、国王に細語(ささや)いた。

 「陛下よ、怪しげな者が見えます。」
と言い、直ぐに馬車の戸を開いて、路を警備して居る警吏の一人を呼び、今横町へ曲がった男を追跡して、其の結果を報告せよ。」
と命じ、そうして馬車は再び進んだ。

 命ぜられた警吏は無論追跡した。町から町と経廻(へめぐ)って決して彼の後姿から目を離さない様にした。けれど彼も満更の素人でないと見え、自分の追跡せられて居る事に気付き、日の暮れごろに及んで、到頭警吏を振り捨てて了(しま)った。警吏は酷く残念だったけれど、見失った後では如何とも仕方が無い。好し、今度若し廻り合ったら、何しても報告の出来る丈けに突き留めねばと呟いて立ち去った。

 その後で彼は又廻り廻って、田舎行きの乗り合い馬車の出る所へ行き、ラグニーまでの切符を買って之に乗った。ラグニーとは此の話に出るモントフアメールと同じ街道で更にその先に在る駅なんだ。馭者は彼の貧乏らしい姿を見て少し眉を顰(ひそ)めたけれど、別に着物が垢じみて居るでも無く、合乗客を嫌がらせるような悪臭を放つ訳でも無いから、切符を売ったが、やがて馬車は出発し、行き行きてモントフアメールの手前まで行った。

 此の時夜は既に九時に近かった。彼はここで下車した。下車すると同時にその姿が無くなった。馭者は自分の怪しむ心を制する事が出来なかった。彼は他の客に語った。
 「今の老人は何者でしょう。貧乏人の風をして居て、その実えらい贅沢です。ここまで来るのにラグニー迄の切符を買いました。只だ銭を損して居ます。」

 或いは再び乗るだろうかとも思ったが、終に乗らなかった。のみならず老人が何処へ行ったのか。闇の中だから、誰も見た者が無い。
 けれど老人は消えて了(しま)った訳では無い。闇を潜ってモントフアメールの山の方へ辿(たどって)行った。此の山は、先頃戎瓦戎が大金を隠したのでは無からうかと疑はれた其の山である。老人は暗やみながら路を心得て居ると見え、誰に向かって問いもしない。

 問わないどころか、若し行く足音らしい者が聞こえると、直ぐに路の脇の溝の中へ躊(しゃが)み、自分の姿を認められない様にして、その足音を遣り過ごした。仲々深い用心を持って居る。この様にして彼が終に山に行ったのは、小雪が水を汲んだのより、一時間余りも前である。山の中で何をしたかは、此の老人が、誰かと言う事を察して居る人の大抵は、察した所だろう。

 彼は一時間以上も山の中で仕事をして、又徐々(しずしず)と崖下に降りて来た。降りて来て小雪に逢い、その水汲み桶の重さに悩んで居る様子を見た。素より小雪と言う事は知らない。只だ憫憐(あわ)れむべき少女だとのみ思った。彼はなかなかに憐みの心の深い質と見える。

 小雪とも誰とも知らずに自分の手を貸し、その桶を提げて遣った。イヤ容易には提げて遣らなかったけれど、小雪が神の助けを呼ぶに至って、聞くに聞きかね、殆んど我れ知らずに手を下したのだ。是が何者かの引き合わせと言うのでは無いだろうか。人間の世の中には、到底人間の力を以て、知る事の出来ない運命が沢山ある。その運命が奇妙不思議に人間を操るのだ。





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