巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou6

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.6


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

   噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史噫 

      六  寝台の上に置き直り

 「兄弟」とまで言われて、その親切を感ぜずに居られようか。戎・瓦戎(ジャン・バルジャン)は腸(はらわた)の底までも有難さが染み渡った様に、首を垂れて呟(つぶや)いた。
 「俺はもう、食わ無くってもいいや。寝無くってもいいや。余(あんま)り親切にされるから、空腹(ひもじ)いのも忘れてしまった。」

 真に感極まったと言う者だろう。とは言え、やがて食事の用意が出来ると、彼れは餓(うえ)た獣(けもの)の様に貪り食らった。けれど献立は極めて質素だ。彼は気の附いた様に、
 「アア牧師さん、貴方よりは馬方の方が、余っぽど旨(うま)い物を食っています。」

 僧正は穏やかに、
 「それは馬方の方が、私より骨の折れる仕事をして居るからです。」
 僧正の言葉は総て神々(こうごう)しい。
 食事の間に僧正は、幾度か憐みの眼を以て彼の顔を見、竟(つい)《とうとう》に問うた。

 「随分貴方は苦しい想いをしたでしょうね。」
 戎は嘲(あざけ)る様に答えた。
 「ヘン、苦しい想い。そうです、赤い着物で、獣の様に首輪が嵌(はま)って、足には鉄の鎖で重い大砲の球を結び附けられ、何にもしないのに鞭が降り、一言云えば、密室監禁です。病気で寝ても鎖の離れる隙(ひま)は無く、全く犬に劣ります。爾(そう)して長い十九年を勤めた挙句が、この黄色い鑑札で、年は四十六に成りました。この鑑札の有る間は、何所へ行っても人間の様には思って呉れませんワ。」

 苦い言葉である。
 僧正「けれど貴方が世を恨(うら)み、人を憎む心で以て、その境遇を出て来たならば、猶(ま)だ悪人では無いのです。真に憐れむべき人と言う者です。若し更に不平も抱かず人をも恨まず、却(かえ)って慈悲の心で以て出て来たなら、貴方は何人も及ばぬ程の善人です。」

 この言葉が何の様な感じを起させたかは分から無い。更にこの後で様々な話をしたけれど、僧正は彼にその身の堕落を恥じさせる様な事は一切言わず、唯真の兄弟を扱う様に、打ち解けて、非常に親しく扱ったのは、この上も無い情けである。

 やがて一同と共に食事も済んだ。老女は早速食卓(テーブル)の上を片付け初めた。取分けて銀の皿を先に仕舞ったのは中々の用心である。僧正は戎・瓦戎に向かい、
 「サア、もうお寝(やす)み成さい。」
と言って、銀の燭台の一個を与え、一個は自分が持って丁寧に彼を寝室(ねま)に送り届けた。

 寝室と言うのは、この家の間取りが宜(よ)く無い為め、僧正の居間を通らなければ行かれないのだ。戎・瓦戎は送られつつも、深く考え込む体であったが、寝室に入ってから、何と思ったのか、今まで僧正の徳に感じて、綿の様に柔らかで有ったのに引き替え、忽(たちま)ち打って変わった様な挙動を示した。

 幸いに、僧正と彼と唯二人差し向かいである。若しこの時、僧正の妹御か老女かが居合わせたなら、必ず恐れ戦(おのの)く所だっただろう。彼瓦戎(バルジャン)は、垂れた首を突然挙げ、僧正に向かって立ち、両の手を横柄に胸に組んで、嚇(おど)す様に僧正を睨み付けた。或いは飛び掛かる積りででも有るのだろうかと思われた。

 何故彼の様子はこう変わったのだろう。問うまでも無い。十九年も牢に居て、荒らびに荒らびた心が、今漸く僧正の親切で治まって居たけれど、一時の力は、本来の性に勝たず、暫(しば)し抑えた反動に、その性が跳ね返る様に湧いて起こり、自分でも制する事が出来ないのだろう。全く我を忘れた様な者である。爾(そう)して嗄(しゃが)れ声を立て、

 「貴方は自分の寝る直ぐ隣の間へ、私を寝かせて好いのですか。」
 自分の声の恐ろしい響きに、彼は又心附いたか、忽ち破顔して呵々(かか)と笑った。笑い声の物凄さは何にもたとえられない。けれど僧正の態度は少しも変わらない。戎は又言った。

 「貴方は篤(とく)《じっくり》と考えての事ですか。私が人を殺さ無いと誰が言いました。」
 殆どがお前を殺すかも知れないぞと言う様にも聞こえる。僧正は答えた。
 「それは神の知る事です。」
と。爾(そう)して戎を宥(なだ)める様に口の中で祈り、更に片手を彼の額の辺まで挙げ、神の恵みが、彼の身に加わる様に撫で鎮めて、静かに茲(ここ)を去った。

 こうして僧正は自分の居間に入り、又暫し神前に祈りを捧げて庭に出た。そうして森厳《秩序があって厳かなこと》な庭の景色に、天地の示す深い秘密を考えながら逍遥(しょうよう)した。

 之に引き替え、瓦戎は僧正の去った後に、柔らかな寝台の面を見廻した末。枕元に置いた燭台の火をば、牢の中で慣れて居る通りに鼻息を以て吹き消し、そのまま寝台の上に身を横たえ、眠りに就いた。間も無く僧正も部屋に帰り、十二時に至って之も寝た。

 一眠りの後、戎・瓦戎は目を覚ました。やおら寝台の上に起き直り、四辺(あたり)の様子に耳を澄ましたが、闃(げき)《森閑》として何の物音も無い。一家全く寝鎮まった。



次(七)へ

a:527 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花