巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou69

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   六十九  尼院(あまでら) 四

 埋めてしまえば、棺の中へ空気が通わない事になる。中の人は絶息するに決まって居る。事に依ると、もう絶息して居るかも知れない。そうして掘り返す中には時間が経つ。全く死んでしまうかもしれない。
 穴掘り文学者の一鋤(すき)一鋤に、星部父老の心配は、何れ程で有ったか知れない。彼は全く自分の手で、恩人の命を、少しづつ奪って居る様に感じた。何うにかして文学者の手を止(とど)めなければ成らない。何うかにして、何うにかしてと、彼は心の中で悶え苦しんだけれど仕方が無い。一鋤、又二鋤と、土は戎瓦戎の棺の上に雨の様に落ちる。

 星部父老は絶望した。もう恩人の命を取り留める綱は切れた。絶望の余りに彼は唯きょろきょろ眼ばかりを動かした。
 動く眼にチラリと留まったのは、穴掘り文学者の腰の衣嚢(かくし)《ポケット》)から、何か白い一物の端が食(は)み出している。此の一物が不老に取っては、天の導きだ。此の一物が父老の眼に留まると共に、一種の知恵が稲妻の様に彼の心に差し込んだ。彼は非常に静かに、何気無く、背後からそっと手を出し、此の一物を抜き取って、穴掘り文士の少しも気の附かない間に、自分の懐へ隠してしまった。そうしてやがて文士に言った。

 「お前さんは此の墓地に出入りする門鑑を持って居るかえ。門の鑑札をサ。」
 文士は問いの意味を理解することが出来ない様子で有ったが、再び同じ様に問い返されて、初めて気が附き、鋤を持った手を止めて、
 「アア、僕は此の業を始めた時、門艦を貰って、今日も持って来て居るよ。」
と言いながら腰の衣嚢(かくし)を探ったが、既に抜き取られた後だから、有る筈が無い。

 「オヤ、家へ置いて来たのかな。」
 父老はここだと思い、
 「それは大変だ。此の門を出る時にそれを門番に示さなければ規則に触れる。」
 文士「規則に触れる事は好く知って居るが、ハテな此方の衣嚢(かくし)かも知れない。」
 父老「此の頃は新墓を発(暴)いて、死骸の着物を剥ぎ取って行く様な、恐ろしい盗人が有るので、夜中鑑札無しで此の墓場に居る者は罰金だよ。十五円の罰金を取られるよ。」

 十五円の声に文士は色を変え、一切の衣嚢(かくし)を裏返すまでにして検め、
 「大変だ、大変だ、僕は全く忘れて来た。家を出る時、確かに持って来たと思ったけれど。」
 父老は親切気に、
 「忘れて来たのなら、早く帰って取って来るが好い、未だ門を閉じる刻限までは二十分ほど間があるから。」
 文士「そうだ、そうだ。僕の家はポジラ街八十八番地で、ここから随分遠いけれど、一散に走って行って来よう。アア気を附けて呉れて有難かった。十五円の罰金では、身代限りをしたとて追い付かないワ。」
と言い、真実有難そうに父老に謝して一散に走り去った。
そ 是より三十分と経ないうちに、二人の老人が、一人は鋤を肩にし、一人は鶴嘴(つるはし)を擔(担)いで此の墓の門を出た。両人ともに鑑札一枚づつを門番に示した。即ち此の両人が父老と戎であることは言うに及ばない。

 父老が棺の蓋を開いた時、戎は早や気絶して居たけれど、父老の少しばかりの手当で直ぐに蘇生し、此の通り連れ立って墓門を出たのだ。そうして父老が先に立ち、ポジラ街八十番と言う所を尋ねて行き、、彼の文士の住居へ入って見ると、文士は文具や原稿などを取り散らして、一枚の紙をも二枚に剥ぐ様にして、鑑札を捜して居る。父老はその目の前へ鑑札を投げ出し、
 「お前さんのだろう。墓地に落ちて居たから、拾って来て上げた。鋤と鶴嘴も、サアここへ置きますよ。」
と言った。
 
  文士が頓首して述べやうとする礼の言葉を、耳に入れずに去ってしまった。
 又も是より数時間の後、此の両人(二人)は、一人の少女を引き連れて尼院の門へ着いた。
少女は即ち小雪である。前晩に星部父老が籠に入れて背負って出て、懇意(親しい)な家へ預けて置いたのを、尋ねて行って連れて来たのだ。連れて来て院(寺)の門へ近づく頃、戎瓦戎は蛇兵太の残して有る、見張り番の目を避ける為、余ほど用心したが、その甲斐有って見咎められもせず、無事に尼院へ入る事が出来た。

 此の翌日から尼院の中に、腰に鈴を着けた寺男が二人出来た。唯だ不思議な事には、若い達者な方が、何時も内に居て、外出の走り使いは、年取った跛足の方が常に引き受ける一事であった。けれど誰も此の不思議には気が附かなかった。そうして尼院の寄宿寮には、幼年の女性が一人殖えた。是れは小雪であるのだ。
 小雪は休日の日毎に星部父老の小屋へ来て、「阿父(おとっ)さん」の顔を見るのを、此の上も無い楽しみとした。

 「阿父さん」も此の尼院の中、此の小屋の中で、殆んど今までに無い程の安楽を得た。ここならば、蛇兵太も捕吏(とりて)も探偵も来ない、真の安心の場所である。彼は全く救われたのだ。彼は時々、自分の実の上を考え廻し、確かに神が此の身を保護して呉れて居るのだとの感じの湧き出ることを、止める事は出来なかった。

 前に一身の置き所が無く成った時には、高僧に救われて、それが魂を入れ替える空前の動機と為り、今度又、この世に身の置き所の無くなった際に当たり、尼院へ救われるとは、偶然に似て決して偶然では無い。前に入れ替えた魂を、更に此の所で研き揚げなければ成らない。彼は益々信神の人と為って、静かに此の尼院で年又年を送って居た。

 その中に小雪も段々成長した。ホンの幼女で有った者が、漸く娘とは為った。



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