aamujyou72
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
七十二 本田守安 一
事長くともここ数回の間、守安の事を説かなければ成らない。
「汝、父の子たるに恥ずる勿れ。」
との遺言状の文句は異様に守安の心に浸み込んだ。誠の父が魂を籠めた文字だもの、浸み込まいで何としよう。真に腸(はらわた)へ刻み附けられた様に感じた。
この様にして守安は、その遺言状を肌身に着けて都へ帰ったが、聞いた父と見た父とは、余ほどの違いが有る様に思われるので、何方(どちら)なのか決められない所も有り、誰かに良く聞き度いと思って居るうち、図らずもその疑いの晴れる事柄に出会った。それは他でも無い。毎(いつ)も行く教会堂に、真鍋老人と言う小使いが居る。或時守安が樹蔭の台に腰を掛けて休んで居ると、丁寧な言葉で、
「何うかその台を空けて下さい。」
と言い、了承して立ち上がる守安に向かい、詫びる様に、
「実は此の台は私に取って、神聖な想いがするのです。」
と言って、その詳細を語り出した。守安は何気なく聞いて居たが、聞くに従い、自分の身に非常に関係の有る事の様に感じたので、我を忘れて打ち聞く程に成った。
老人「イヤ数年前の事ですよ。時々此の教会へ来、人目に触れない様に、此の樹陰の台に腰を掛け、会堂の中の聴衆を覗き込む、貧乏らしい士官が有りました。私は怪しんで良くその様子に気を附けて居ると、聴衆の中に、貴族の御隠居に手を引かれて来る、一人の少年が有ったのです。士官はその少年の顔を見る為に来るのでした。
それはそれは、その熱心と言う者は並大抵で無く、少年の一挙一動に、全く気を奪われる様で、涙を浮かべる事さえ有りました。益々私は合点が行かず、たとえ少年の父としても、是ほどまで熱心に成れる者では無い。それに父ならば誰憚らず、少年の傍へ行きそうな者だのにと、此の様に思って居ましたが、そのうち私は、自分の兄がベルノンと言う所の教会に奉職して居ますので、それを尋ねて行きました所ろ、その土地で今の士官見受けました。
ハテな、此の様な遠い所から故々(わざわざ)少年の顔をを偸み視る為に出張するのかと思い、兄に逢って早速聞いて見ますと、その士官はツイ近所に詫び住居(すまい)して、草花などを作って居る、拿翁(ナポレオン)の落ち武者だとか言いましたよ。それから兄と共にその詫び住居を尋ねて行き、逢って親しく話を聞きましたが、全くのところ、少年の実の父でした。
父では有りましたけれど、その子を王党の貴族へ養子に遣り、党派の違いの為に、その家へ出入りが出来ないのだが、何分にも子が懐かしく、余所ながらにもその姿を見度いので、旅費の都合が附く度に、都へ尋ねて行くのだと言いました。真に私も兄もその優しい心に貰い泣きを致しました。それからと言う者は、兄はその士官と懇意(親しく)にして、先頃その士官の死んだ時も、死に水を取ったと言う事です。私の方は此の台を神聖な者と思い、成べく人に、腰を掛けさせない様にして有ります。」
聞き終わって、守安は密かに目を拭った。そうして問うた。
「若しやその士官は、少佐本田圓と言う人では有りませんか。」
老人「それを貴方は何うして御存知です。」
守安「私がその子です。」
是より守安と真鍋老人とは莫逆(ばくぎゃく)の友《意気投合して極めて親密な友》の様に懇意になった。
それよりも守安は、今まで長く父の事を悪し様に思った自分の過ちが、如何にも済まない事の様に気が咎め、又一方には自分へ父を悪し様に思はせた、養祖父の心が恨めしく成った。
今まで父を知らなかった埋め合わせに、是から父の事を良く調べて見なければ成らないと思い、拿翁(ナポレオン)の戦争に関する書籍などを、殆ど魂限りに調べたが、調べると実に我が父は勇士である。武士の手本である。
何しろ感情の最も盛んな十七、八の年頃だから、守安は父の人物に深く感ずると共に、父の思想も我が思想と為り、全く生まれ替わった様に成った。何度彼は父の遺言書を取り出して読んだか知れない。読むに従い、父の次に又一人、神聖な程に思われる一人が出来た。それは誰れ。
曰く手鳴田軍曹
何でも我が父を助けた人だから、一廉(ひとかど)の勇士には違い無い。捜し出してその恩を返さなければ成らない。父の遺言は、倍も二倍も実行しなければ成らないと、此の様な心が胸に満ち満ち、早速に名刺を印刷させ、肩書へ「男爵」と記入した。
「男爵本田守安」
是が自分の身分である。我が父が血を以て得た爵位である。
別に此の名札を、何所へも差し出す宛ては無いけれど、持って居る丈でも気持ちが好い。そうして次には必死に軍曹手鳴田の行方を調べ始めた。けれど是は容易には分からない。
此の頃から彼は又、時々一夜を家へ帰らずに明かす事が有った。多情なる養祖父は、定めし女の為ででも有りはしないかと思い、或時、人をしてその後を尾(み)させた所、夜半(よなか)に出る馬車に乗り、ベルノンへ行って父の墓へ参って帰るのだと分かった。
王党の家の養子が、拿翁(ナポレオン)党の者の墓へ故々(わざわざ)夜を掛けて詣でに行くとは、実に怪しからぬ。取分け此の頃は、少年の間に革命の思想が兆し、今の王朝を覆えそうとする者さえ有る。
無論拿翁党の残党などは、その首謀者の一派である。
実に頑固な我儘(わがまま)な養祖父の怒りは、並大抵では無かった。或時守安の留守にその居間の箪笥などを調べて見た。革命的な文書が沢山ある。
「父の子たるに恥ずる勿れ」
との遺言状も出た。その中には、現朝廷を無視する「男爵」の肩書を用いよとの指図も有る。「男爵本田守安」と印刷した名札も出た。烈火の如く養祖父の怒って居る所へ守安は帰って来た。老祖父は大喝一声にその不埒(ふらち)を叱った。守安は少しも恐れない。却って意気軒昂の有様で、
「拿翁党万歳」
と高呼した。彼の心中に何ほどの火が燃えて居るかは是で分かる。此の結果は、言う迄も無い「勘当」。
彼は一銭の生活費を得る由も無く勘当せられた。
天地の間に全くの裸虫とは為った。
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