巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   八十四 四国兼帯の人 一

 又年を一つ越え、寒い翌年の二月とは為った。或る夜彼は書き物を、書肆(しょし)《本屋》へ届けて帰る道で、霧が籠めて行く手の街灯の下に、二人の少女と見える姿を朧気に認めた。
 一人「ねえ、姉(ねえ)さん、私はヤッと逃げて来たよ。もう少しで捕まる所さ。」
 一人「私だって捕吏(ほり)に取り囲まれ、一生懸命に逃げ抜けたッ。」
と言うのが二人の話声であった。

 妙に此の声が守安の耳に響いた。扨(さ)ては姉妹の乞食ででも有ろうか。若い女の身で捕吏に取り囲まれるとは可哀想な境遇と見えるななどと、何だか憐れさを催したのは、自分の心は打ち鬱(ふさ)いでのみ居る為ででも有ろうか。その中に二人の姿は霧の中に隠れたが、やがてその所まで行くと、靴先に掛かった物が有る。取り上げて見ると汚れた手巾(ハンケチ)に包んだ者で、何だか手紙らしく見える。

 若しや今の姉妹が落としたのでは無かろうかと思い、見廻したけれど姿は見えない。追い付かれようかと又足を早めたけれど、追い付きもしない。止むを得ず持ったままで宿に帰り、若しや落とし主の住居でも分かるだろうかと、その中を開けて見ると、悪い煙草の臭気がプンと鼻に来る。中は四通の手紙である。状袋《封筒》には入って居るが、未だ糊をを附けて無い。

 取り出して検(あらた)めると、四通とも見ず知らずの紳士貴婦人に宛てた無心《借金の申し込み》状で、確かに一人の手で認めた者だけれど、一々名前を変えて有る。一通には国境を追われた西班(スペイン)の勤王党の老士官で、此の国へ来て旅費が尽き、進退極まるから幾等でも恵んで呉れと有り、又一通には零落した某国の美術家だと書いて、詰まり一人が四通りの名を持って居るのだ。

 若し守安が世故に長けた男ならば、是を見て若しや隣の部屋に居る四国兼帯の下宿人では無かろうかと、思いもする所だろうが、彼は唯だ合点が行かないと思ったのみだ。けれど最後の一通は、聊(いささ)か彼の心に一種の連想を引き起こさせた。
 それは、
 「日々ヂック寺の庭に来られる慈善なる紳士よ」
と宛ててあるので、何事に就けても直ぐに黒姫を思う彼に取っては、慈善紳士の一語で白翁を思い出し、日々寺の庭に来たると言うので、日々公園に行った事が妙に心に浮かんだ。

 是が恋人の妄想と言う者では有るけれど、此の様な事実や此の様な妄想が糸と為って、又何(ど)んな運命を編みつつあるのか、分かったものでは無い。


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