巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou87

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   八十七 四国兼帯の人 四

 勿論暖炉(ストーブ)にも「贅沢」と言う程の火は燃えて居ない。けれど彼は鍋の湯を浴びせて之を消した。そうして更に忙しそうに室内を見廻した。
 娘は言った。
 「阿父(おとっ)さん、そう慌てるには及びません。直ぐに来るのでは無いのだから。」
 父は目を剥きだした。

  「何だと、直ぐには来ない。では逃げられたのでは無いか。」
 自分が日頃、逃げる様な事ばかり考えて居るから、人を疑うのも深い。
 娘「ナニね、私に番地を聞いたから詳しく答えますと、何だか此の家を知って居るのか、オヤあの家と呟きましたが、直ぐに考え直した風で、

  「ナニ構わない。」
と言い、それから外へ出て馬車に乗り、私に向かって、
 「買い物をして行くから先へ帰って居ろ。」
と言いました。今頃は買い物をして居るのですよ。茲へ持って来て呉れる為に。」

 父は少し不機嫌だ。
 「何、買い物だと。金持ちと言う者はそれだから困る。此方(こっち)が空腹だと言えば食い物を呉れる。寒いと言えば着物を呉れる。それでは全(まる)で人を乞食扱いにすると言う者だ。俺などは乞食では無い。着物や食い物は人から貰わない。金が欲しい。金が欲しい。買い物などせずに代価で呉れれば好いぢゃ無いか。」

 妙な見識も有った者だ。妻は嘲(あざ)笑った。
 「食べ物とお金と両方を呉れ無いとは限らないのに。」
 食べ物と言う一語が、妹娘の胃の腑へ聞こえた。蹲(しゃが)んで居た寝台の陰から立ち上がって、
 『お腹』は私が一番空いて居るのだよ。今食べるのが一昨日の朝飯だもの。」
 姉も負けては居ない。
 「ナニ私は一昨々日(さきおととい)の夕飯だよ。若し食物が来たら、私が先ず先一昨日の夕飯を済ませて、その後でお前と一緒に、一昨日の朝飯を食べるのが順です。」

 空腹が様々の理屈を作り出すのだ。父は今立ち上がった妹娘に向かい、
 「その様な事を言わずに、ソレ其所の窓の硝子を叩き砕け。窓が破れて居ないのは贅沢過ぎる。」
 妹娘は一昨日の朝飯に有り付く見込みが出来たので勇気が出た。飛び上がって拳(こぶし)で以て硝子一枚を叩き割った。何と言う躾(しつ)けだろう。尤も拳より外に、窓を割る贅沢な機械が無いのだから仕方が無い。その代わり拳は傷を受けて血が流れた。流石に母親は、

 「可哀想に、怪我したでは有りませんか。」
 父は機嫌が直り、
 「上等だ、上等だ。此の怪我で益々憐れっぽく見えて来る。」
と言いつつ自分の着物を裂いて、非常に仰山に包帯を施して遣った。
 此の様を此方から覗いて居る守安は、是れが人間の生きながらの地獄の景色だろうと思った。空腹の為には子の怪我をまで喜ばねば成らない。人間がここに至っては、もう何の様な事でもする。人の肉をでも食い兼ねない。実に常識で想像も出来ない様な恐ろしい犯罪が、世に絶えないのも之が為だ。此の親子が犯罪をしないのが不思議である。イヤ今まで何の様な罪を犯して来て居るかは、分かったものではない。

 やがて、今破った窓の穴から、外の霧が流れ入り、風も吹き込んだ。妹娘は恨めしそうに、
 「阿父さん、寒いよ、寒いよ。」
 父「お前より俺の方がもっと寒い。」
 寒さを比べて見る訳には行かないのに、もっと寒いと何うして分かるのだろう。妻は又も嘲笑った。
 「阿父さんは何をしても、人には負けない大層な活智(いくじ)の有る方だからねえ。貧乏比べをしたとしても、世界中の人に勝って居るのでは無いか。」

 何と言う皮肉だろう。こう成っては、夫婦の間に、愛などと言う者が有ろう筈は無い。有るのは唯恨みばかりだ。
 併し父は頓着(とんぢゃく)《気にする》せず、先ず慈善紳士を迎える用意に、手落ちは無いか否やと又部屋中を見廻した。もう此の上に貧乏らしく見せる事は絶対的に不可能である。宛(あたか)も戦争に着手する前に、陣立てを検閲する老将軍の様が有る。

 彼は先に消した暖炉(ストーブ)の所へ行き、濡れて居る炭を灰の底に隠した。誠に注意周蜜である。そうしてその傍に在る大きな鉄の火箸を取って、
 「此の火箸が大きすぎる。併し人の家の塀に有る鉄の棒を、抜いて来たのだから仕方が無い。」
 まさか火箸一本が、慈善家を追い逃がしもしないだろう。

 彼は言い終わって、窓の穴を見て身震いした。
 「えらく寒い、もう慈善紳士が来そうな者だ。」
 妻は例の調子で、
 「窓などを破らせて、若し来なかったら何うする積りだろう。」
 此の一語には夫も愕然と驚いた。若し来なかったなら、本当に何うすれば善いだろう。彼は姉娘に向かい、

 「絵穂子(イポニーヌ)、絵穂子、まさか嘘は言はないだろうな。若し来なかったら承知しないぞ。」
 来ないとしても娘の罪では有るまいに、随分無理な言い分だ。
 娘「来ますよ。嘘を吐く紳士とは顔付きが違いますもの。きっと来ますよ。」
 父「来るなら早く来るが好い。だから金持ちは嫌だと言うのだ。人が飢え凍えて此の通り震えて居るのに、悠々と買い物を仕て居るなどとは。若し俺が風でも引けば何うするのだ。少しばかりの金を貰ったとしても引き合う者か。」

 八つ当たりとは是である。
 言葉が終わらないうちに廊下の方で足音がした。
 「ソレ来た」
と言って直ぐに妻を寝台に上らせ、病人の様に臥せさせて、自分は机の前に座した。此の時、部屋の入口の戸が開いて、一人の老紳士が娘と共に歩み入った。

 吁(ああ)夢では無いだろうかと、覗いて居る守安は目を擦(こす)った。彼が椅子から転げ落ちなかったのは唯不思議と言う外は無い。歩み入った紳士は白翁、連れられた娘は黒姫である。


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