巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou9

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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    噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史

       九  恐る可(べ)き分岐点

 心に何の罪も無い人の、安々と眠れる顔ほど清い美しい者は無い。之に對する人の心まで自然と清浄に成って来る。
 戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)は僧正の寝顔に見惚(みと)れた。真に何と言う穏やかな容貌だろう。雪の様な白髪が広い額を隠し、童顔とも言うべき豊かな頬(ほお)の辺にまで掛かって居て、顔一面に喜びが満ちて居る。

 何の様な夢を見て居るか知らないけれど、殆ど人間の顔とは思われない。神の顔である。多分は善を積み、徳を重ねて、多年研(みが)き立てた良心の光が、天国の光と相映じて、一種の神々しい色を現すのだろう。而も僧正の天国は天に在るのでは無く、心の中に在るのだから、内の光で透き通って居る様にも見える。是がこの世の活神(いきがみ)と言うものだ。

 戎は今活神の前に立って、その威光とその慈悲とに、心の底まで浸(ひた)されて居る様な者なんだ。
 彼は我知らず帽子を脱いだ。彼の額には脂汗が浮いて居る。実に大変な違いである。一方ならぬ恩を受けて、その恩人に仇をしようと言う罪の塊と、全く悪人を信任して、自分の弟の様に持做(もてな)し、少しの危険をも感ぜずに、気を安くして眠る人と、全く地獄と極楽との別が只この咫尺(しせき)《非常に短い距離》の間に現れて居るのだ。

 余りの事に戎は恐れを催した。何でこの身に、こうまで深く気を許して呉れるのだろう。人間業で出来る事とは思われない。
 寧(いっ)そ、この寝た人の頭を叩き割ろうか。それとも此の人の手を戴き、平伏(ひれふ)して謝罪(わび)ようか。戎の心は唯一髪に繋(つな)がれて居る。

 今ならば何方(どちら)へ振り向く事も出来る。毫厘(ごうり)《わずか》の差が千里の違いを来すと言う恐るべき分岐点は、ここでは無いだろうか。窓から射す月の余光に、煖爐(ストーブ)の棚の上に在る十字の像が、宛(あたか)も両手を差し延べて、一方の平穏を祝し、一方の罪を解き宥(ゆる)そうとする様に見えて居る。

 戎は決然《きっぱり》として又帽子を頭に置いた。
 再び僧正の顔に振り向きもしない。寝顔などに見惚(みと)れる、自分の愚かさに気が附いたのだろう。そのまま去って、宵に見た戸棚の所に行き、その戸を開けた。

 ここにも錠は卸(お)りて居ない。そうして延び上がって銀の皿をば、その入れた籠ぐるみ取り出して脇に挟み、急いで自分の部屋に帰った。部屋には携えて来た杖を残してある。之を取るが否や、窓を開き、軽くその外に出て、月の明かりに皿を検(あらた)め、籠は捨てて皿だけを背(せな)の袋に入れ、宛(あたか)も荒れた虎の様に、凄(すさ)まじい勢いで塀を乗り越え、何所へとも無く逃げ失せた。
 *   *   *   *   *   *
   *   *   *   *   *   *
 翌朝僧正は、毎(いつ)もの様に庭に出て散歩した。その所へ、遽(あわただ)しく来たのが老女である。
 『貴方様は、銀の皿を入れた籠を御存じありませんか。』
 僧正は静かに、
 「知って居る。コレここに」
と言って、昨夜、戎・瓦戎の捨てて行った籠を取り上げて示した。

 老女「アレ、籠では有りません。籠の中の銀の皿をですよ。」
 僧正「皿ならば知らぬ。」
と言い、少しも気に留めない様子で、籠に敷かれて折れて居た草花を起こし始めた。老女は狂乱とも言える程の様子で、直ぐ馳せて家に入ったが、無論戎・瓦戎の寝た部屋を見廻ったのだろう。

 間も無く又馳せて来て、
 「盗まれました。銀の皿を。昨夜の人は早や立ち去った後ですよ。銀の皿を盗んで行きました。」
と言って、虚呂虚呂(きょろきょろ)と四辺(あたり)を見廻し、
 「先ア驚いた。塀の彼所(あそこ)を乗り越えて逃げたんです。足痕(あしあと)が残って居ます。何と言う呆れた奴でしょう。貴方様の大恩を仇で返して」
と言って、悔しそうに言葉に力を入れた。

 僧正は又も静かに振り向いて、
 「そう言わずに先ず考えなければ。ーーー、第一あの皿は此の家の物だろうか。今まで私が惜しんで居たのが悪かった。あれは当然に貧しい人の物である。昨夜の客は確かに貧しい人だろう。」

 貧しい人が持って行くのは、当たり前だとの意味が現れて居る。何たる宏量な心だろう。何十年来、僧正の徳に服して、一言も批評らしい言葉を吐いた事の無い老女だけれど、余(あんま)り残念だ。
 
 「盗まれたとしても、私共は構いません。お妹御もお構いは無いのでしょう。けれど、貴方様が直ぐにお困り成さるでは有りませんか。今朝は何の器でお汁(つゆ)をお召上がりになりますか。」
 僧正「何か錫(すず)の皿でも有るだろう。」
 老女「錫は臭います。」
 僧正「では鉄の皿」
 老女「鉄は味が附きます。」
 僧正「では木の皿」

 間も無く僧正は朝餐(ちょうさん)《朝飯》のテーブルに就いた。妹御は何にも言わない。老女は猶(ま)だ口の中で何事をか、頻(しき)りに呟(つぶや)いて居る。僧正は両女に向かい戯(たわむ)れた。
 「ハイこの通りパンの片(きれ)を、乳に浸して直ぐに喫(たべ)れば、木の皿さえも要らない。今まで気の附かない事であった。」
と。

 老女は腰をおろさない。立ったままテーブルの辺(ほと)りを前後に歩みつつ、熟々(つくづく)と嘆(な)げいた。
 「ホンに先(ま)ア、彼(あ)の様な奴に宿を貸し、直ぐに隣室へ寝かせて遣って。でも銀の皿だけで済んだのは未だしもです。命まで取られなかったのが運が好いのでしょう。危ない事、危ない事。思い出してもゾッとしますよ。」

 この様にして、漸く食事の済んだ時、外から戸を叩く人が有った。僧正は少しもためらわず、例の通りに、
 「お入り成さい。」
と答えた。

 答えに応じて戸は開き、動揺(どや)動揺(どや)と外から四人の人が入って来た。その三人が一人の男の首筋を押さえ、殆んど捻(ね)じ伏せる様にして居る。三人は即ち憲兵である。押さえ附けられて居る一人は誰でも無い、戎・瓦戎だ。彼は早や捕らえられたのだ。


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