巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou95

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   九十五 陥穽(おとしあな) 三

 此の悪人が手鳴田とは、意外の上の意外である。我が父の命を助けた大恩人、父が故々(わざわざ)遺言状に書き入れて、
 「命の恩を返せ。」
と迄に我に命じた其の人が此の悪人とは、信じ度くても信じられない程である。

 今が今まで、父を助けて呉れる程の人だから、きっと敬慕するに足る一種の英雄だろうと信じて居た。尤もモントフアーメールを尋ねた時に、失敗の為め家を畳んで、行方も知れないと聞いたので、きっと何所かで貧乏はして居るだろうと思っていた。たとえ貧乏はした所で、此の様な悪事も悪事、大悪事を働く様な人だろうとは思わなかった。

 多分は我が父が貧乏の中でも毅然として武人の風骨を支えた様に、何所かの果で、傲然として貧苦と闘い、世間の人と衝突しつつも魂だけは持ち耐(こた)えて居るだろうと信じて居た。言わば自分の理想の一人で有ったのだ。其の理想が此の体たらくとは何と言うことだろう。余りの事に守安は殆ど心が転倒した。折れ崩れたまま立ち上がる事も出来ない。良くは思案する事も出来ない。全く心が攪(か)き乱れた。

 彼の手に在った合図の為の短銃も、力の抜けた手先から、静かに落ちて床の上に横たわった。
 嗚呼彼が此の様に驚くのは止むを得ない。けれど是が為に合図を怠って済むだろうか。恐らくは今が白翁の命にも関する場合だ。為す可き合図を為さない為め、人一人殺すかも知れない。と言って、此の合図が出来る合図だろうか。彼は未だ其所までは考える事が出来ない。考える事が出来ないけれど、若し考える事が出来る事に成ったなら、彼は何うするだろう。合図をすれば我が恋人の父を助け得る代わりに、父の大恩人を亡ぼすのだ。

 「命の恩を返せ。」
とある其の手鳴田に、宛も其の命の恩を返す事の出来る又と無い場合に逢って、却ってその人の命を亡ぼす様な事をするのだ。是が出来る事だろうか。と言ってみすみす黒姫の父を亡ぼすことも出来る事では無い。彼は驚きの余りにる、此の様な事まで考える事が出来ないのが、未だしもの幸いかもしれない。

 イヤ其の実全く考える事が出来ない訳では無い。彼の驚き方の甚(酷)いのも、実は此の様な板挟みの場合だから猶更なんだ。考えなくても其の重荷が、彼の心を圧し挫いて居るのだ。其の重さの為に彼は立ち上がる事も出来ないのだ。
 けれど隣の部屋では掛け構い無く、荒療治が歩を進めて居る。手鳴田は自分の顔を照らして居た蝋燭を傍らに置いて、

 「エ、少しも思い出さない。アア知らぬ振りをすれば済むかと思っても、そうは行きませんよ。思い出さないとならば、思い出させて上げましょう。今から八年前のX’節(クリスマス)の夜に、貴方は丸で乞食の様な風をして、モントフアーメールの軍曹旅館へ泊り込みました。其の時の主人が私です。そうして旨く私の目を眩(くらま)し、あの娘を誘拐したでは有りませんか。

 あの娘と言えば分かって居ましょう。華子の娘です。私し共夫婦が、雲雀と言う名を附けて大事に育てて居た、あの娘をさ、其れも好いが、金持ちの風をしては、私共に無心を言われると思い、乞食の様な風とは、余(あんま)り人を馬鹿にした仕打ちです。其れで私し共がやっと承知すれば貴方は風呂敷の中から用意の着物を取り出して小雲雀に着せたでは有りませんか。誘拐(かどわか)しの目的で無ければ、何であの様な子供の着物持って来ました。

 其の後で私が誘拐しと気が附いて、追掛けたら貴方は何としました。大きな杖を振り廻して私を追い払ったでは有りませんか。あの時から私は思って居ました。今度若し廻り逢えば、此の敵を打たなければならないと。所が天道は正直です。正直者を助けます。今夜貴方が此の家へ遣って来て、此の様な事に成るとは、天のする事ですよ。此れでも未だ此の顔を思い出さないと言いますか。サア何うです。サア、何とか返事を聞きましょう。」

 白翁は静かに、
 「多分人違いか何かでしょう。其れは私では有りません。」
 手鳴田「エ、人違い、もう一度私の顔を篤(とく)と見て、其の上で物をお言い成さい。貴方は此の手鳴田を何者だと思います。誰と思います。」
 白翁は手鳴田の顔を静かに見て、異様に丁寧な言葉を以て

 「そうですね、盗賊だと思います。」
と答えた。何たる皮肉な言葉だろう。皮肉よりもむしろ大胆である。手鳴田の妻は赫(かっ)と怒り、
 「エエ、悔しい、内の人を盗賊だなどと。」
 現在盗賊の妻で有って、夫の盗賊の所業を手伝って居ても、夫を盗賊と言われるのは腹が立つと見える。殆ど掴み掛かる程の剣幕で、白翁目がけて馳せ寄った。手鳴田は之を制して、

 「オオ、盗賊でしょう。金持ちの言う事は極まって居ます。正直な貧乏人を見れば直ぐに盗賊だの巾着切りだのと。コレ、盗賊が三日も四日も家内中飯も喰わずに、慈善家の助けを乞いますか。
貴方は金持ちでしょう。金持ちだから此の寒さにも毛皮の中に包(くる)まって、部屋の中で暖炉(ストーブ)を焚き、そうして寒暖計を見て、少し温か過ぎるから窓を開いて冷たい空気をを入れろなどと、贅沢を言うのでしょう。私共は自分の体が寒暖計です。身体の中の血が凍るから扨(さ)ては寒さが零点以下に降ったと知るのです。其れを却って盗賊だなどと。盗賊をする様な男か、履歴を聞かせて上げましょう。

 有名な水ワーテルローの戦争で将軍本田 圓(まるし)を救ったたのが此の手鳴田軍曹です。今貴方に売ろうと言ったあの絵は、其の時の手柄を書いた者で、命よりも貴いですけれど、不正直な事をする心が無いのだから、其れをさえ手放そうと云のです。世が世ならば、金鵄勲章も下げなければ成らない身分です。何も盗賊をしようとは言わない。命より大切な品物を売ろうと言うのだ。買いますか。買いませんか。買わなければ、お気の毒ながら昔の敵だ。貴方の命を戴かなければ成りません。」

 勿論これらの声は此方の部屋の守安に良く聞こえる。彼唯心が搔き紊(乱)れて居て、一々は聞き取らぬとは言え、将軍本田圓を救ったとの一語は、自分の心に拘わらず、耳の底に浸み込んだ。もう少しも疑う所が無い。父を助けたのが全く此の四国兼帯の人なんだ。何しても合図をする事が出来ない。
 父の遺言には背かれぬ。



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