akutousinsi38
悪党紳士 (明進堂刊より)(転載禁止)
ボアゴベ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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悪党紳士 涙香小史 訳
悪党紳士 涙香小史 訳
第三十八回
綾部と蘭樽は其の介添え人から、明かりに光々と光る、抜き身受け取り、右と左に立ち分かれたが、蘭樽は日頃の謙虚に打って変わり、酷く綾部を見下し、嘲(あざけ)りの笑みを含んで、
「決闘は場所が大事だから、籤(くじ)引きで場所を定めよう。」
綾部は充分な怒りを帯び、心が燃え立って居る時なので、唯一刻も早く戦おうとする意気込みで、
「場所などは何うでも好い。其の方の勝手ににしろ。」
と叫んだ。之で蘭樽は家を後ろにして、塀の方に向い、綾部は塀を後ろにして家に向い、共に足場を定めたので、介添え人は呼吸を計って、
「一(ひい)ー、二(ふう)ー、三(みい)ー」
と合図した。綾部は幼い頃から、田舎に在って、充分剣術の稽古を積んだが、今まで真剣の勝負をした事が無かったので、剣の光に目も暗み、合図の声の起こると同時(ひとし)く、遮二無二(しゃにむに)切って掛るのを、蘭樽は剣の達人である上に、幾度となく真剣の場を踏んだ事があったので、度胸が据わって身体に隙は無い。
切り入る綾部の切っ先を、右に左に流し、払い捲(ま)くって、寄せ付け無いのは、充分な手際を見せようとしての事だ。一たび払われる毎に、綾部は百倍の怒りを増し、今度こそはと切り附けたけれど、綾部が益々怒ると共に、蘭樽は愈々(いよいよ)落ち附き、或いは力に任せて押し返し、或いは身を返して空を打たせる、其の掛け引きの巧みな事はは飛燕の密林(はやし)を穿つに似ていた。
この様な事が、やや久しくして、綾部が次第に疲れて来るのを待ち、蘭樽は確かに両足を踏み直して、此の度は綾部を受身に尾経たせ、我より切り入る事となれり。其の切っ先の鋭い事と云ったら、宛(さなが)ら稲妻の様で、綾部も今は当たり兼ね一足一足に退き始めた。殊に蘭樽の剣法は着々急所を狙う者にして、或時は咽喉を狙ひ、或時は肺を狙ひ、又或時は心臓を突かんとするなど、最も危険な所ばかりなので、綾部は、一たび受け損ずることがあったら、其の命は唯一瞬にして消え失なってしまう。
有浦、町田両介添え人は之を見て、此の勝負は到底(とて)も綾部の者に非ずと思ひ、今五分間も経つ中には、命を落とすことが目に見えるので、少しでも、何方(どちら)にか傷が附き次第、直ちに引き分けようと思ったが、蘭樽は其の意を悟り、傷を附けて引き分けられては、後の邪魔になるので、唯一突きに、命を取ろうと思っているようだった。
嗚呼、危ういかな綾部の一命、今は風前の灯火である。落ちて来た巌の下の卵子である。
此の決闘は是から、一分も経た無い中に、全く勝負が附いた。一方は何の怪我も無く、一方は全く殺された。しかしながら綾部が殺されたのか、蘭樽が殺されたのか。そは読者銘銘の推量に任せて、茲(ここ)には記さない。後になって自ずと分かるだろう。是から話しは代わって、伊太利(イタリア)村に在る鶴女の家の物語に移る。
鶴女の家では、素より此の決闘の事は知らなかったが、是まで毎日の様に蘭樽伯と打ち連れて訪(おとな)い来るのに、此の日に限り二人とも影さへ見せないので、一同怪しく思ったが、連れ立って物見遊山にでも行った者だろうと思って、心にも留めなかったが、此の翌日になり、翌々日になり、又其の翌日になっても、何らの便りを聞かなかったので、中でも蘭樽贔屓(ひいき)である鶴女の心配は並大抵では無かった。独りお蓮に打ち向って、
(鶴)奥さん、先ずア何うなさったのでしょうネエ、有浦さんも蘭樽さんも余(あ)んまりでは有りませんか。今日で最う四日目ですヨ。
お蓮は日頃にも似ず、非常に鬱(ふさ)ぎ込んだ顔付で、
「好いよ、放って置きな。来ないからには、多分蘭樽の気でも、替わったのだろうよ。ナニ気の替わった人を、無理に来て貰うには及ばないから。」
(鶴)貴方先ア蘭樽の事と云えば、毎(いつ)も何だか気の無い様なお返事ですが、夫じゃア困るでは有りませんか。
(蓮)アア私は何うも、彼の人には気が無いよ。何も私からお仙に進めて、婿夫にさせたと云うのでは無し。来無くなっても私は少しも困らないよ。
(鶴)貴方はお困りなさらずとも、嬢様がご心配なさるじゃ有りませんか。
お蓮は少し驚いた様子で、
「オヤ、お前は仙嬢(あのこ)が蘭樽を愛して居るとお思いか。
(鶴)お愛しなさっていなくても、貴方、アノ様な婿夫(おむこ)様は又と有りませんよ。」
(蓮)ナニ、お前、お仙は唯一時、綾部に外の女が出来たと思い、其の悔し紛れに、蘭樽の妻と為るのを承知したばかりで、少しも蘭樽を愛しては居ないんだよ。夫に蘭樽には、命を救われた恩が有るから、逢えば下へも置か無い様にして居るけれど、ナニ蘭樽を恋しいとも何とも思っては居ないワネ。
時々綾部の事を思ひ出すと見えて、一人考えて泣いて居るから、私も不憫で。是と云うのも、皆私の今までの身の持ち方が悪いから、愛女(むすめ)にまで、その様な思いをさせるのだ。私の身が一度でも、デミモンドになった事さえ無ければ、お仙はもう疾(とっく)に綾部の妻と為って居るだろうけれど。
今でも私が無くなれば、綾部もお仙を妻にも仕ようが、と云ってもう蘭樽と婚礼の約束が出来たし、もう是切りに蘭樽が来なくなれば好いと思って居るサ。
(鶴)貴方先ア、此の頃では何かと云えば、私が無くなればなどと、気に掛る事を仰る。婚礼の前になり、その様に涙など流す者では有りません。エ、貴方、ナニネ、蘭樽様は有浦様までも誉めるお方ですから、アノ方を婿夫(おむこ)様に致せば何(ど)れ程嬢様の幸いか知れません。今日は私が利門町まで行って蘭樽様の御様子を伺って参ります。
(蓮)もう蘭樽の事を云うのは、止してお呉れ。私は初めてあの人に逢った時から、身の毛の立つ程厭であったけれど、よもやと思って思い直し、嫌な顔もせずに交際(つきあ)って居たけれど、この様に四日も来ない所を見れば、私が初めに思った通りだ。決して見掛けの通りの紳士では無い。何の様な用事が有るにもせよ、本当の紳士なら、音沙汰無しに四日も許婚に顔を見せ無い筈は無い。ナニもう来なきゃ来ないで、好いけれど。
それよりは、有浦さんが気に掛るよ。何うして四日も来ないのか。お前、蘭樽の家へ行くなどは止してお呉れ。夫よりは今日私が有浦の宿まで行くから、一緒に来てお呉れ。
この様に色々と話の末、お蓮はお仙を家に残し、鶴女を引き連れて有浦が宿に訪ねて行った。
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