巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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悪党紳士   (明進堂刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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悪党紳士        涙香小史 訳

               第四回

 お蓮が此(この)恐ろしい人殺しを見認(みと)めた翌々日の朝は、早や仏国(フランス)中の新聞紙が、此事を非常に不思議そうに書き立て、馬鳥町の林屋に、頓死した貴婦人有りなどと、読み立て売り歩く者も有った。寄ると接(さわ)ると、此の噂ばかりと為ったので、警察署でも、医者及び探偵を派遣して、充分に調査を遂げたけれど、死体に何の傷所も無く、他人に殺された様な痕も無かった。又毒薬を服したと思はれる様な、兆候(しるし)も無かったので、全く病の為に頓死した者と断定した。

 この様に断定されたが、さて此の婦人は何国(いずく)の人で、何の為に仏国に来て居たのか、その身許(みもと)、その国許(くにもと)など、知っている者は一人も無かった。日本などでは、身許(みもと)が知れ無い者が、死亡した時は、警察から直ちに区役所又は郡役所に引き渡して、仮埋葬をする事に成って居るが、仏国ではそうでは無い。

 従前から、この様な身許(みもと)が知れ無い者の、死骸だけを陳列して、諸人の縦覧に供する所がある。多い縦覧人の中には、その顔を見知っていて、訴え出る者も有るので、その者の言い立てを聞いて、丁寧にその身許を調べ、然る可き親類縁者等に、引き渡す定めである。

 それで、此の怪しい婦人の死骸も、翌日には直ちに縦覧所に持って行かれ、溺死人や行き倒れ人などの死骸と同じ所に、陳(なら)べられたので、老若男女その噂を聞いて、我先にと縦覧所に押し掛けた。

 お蓮は、初めから此の婦人を、自分が日頃捜していた居た人では無いかと、気にしていたので、切(せめ)ては、その死に顔を見て我が疑念を晴らしたいと思い、なるべく人目に立たない様に、黒い地味な衣類を着け、頭巾(ベール)を眉深(まぶか)に引きかぶって、我が家を立ち出でて、人々の中に雑じって、縦覧所に入って行った。

 入って行って、つくづく死骸の顔見ると、既に幾年か逢って居なかった人だった。年は大分老けたけれど、疑いも無く、我が思う英国の貴婦人だった。事の仔細は分からないが、親類も無く、知る人も少ない此の他国に来て、悪人の手に掛り、空しく非業の最期を遂げたものである。

 今、目の前に、息も無く脈も無く横たわって曝(さら)される、此の哀れな死骸を見て、どうして涙を催さない事があろうか。独り思いを廻らせてみると、此の広い仏国に、此の婦人を知る者は、我と彼の曲者の二人しか居ないのに、我が若し我が口を閉じ、官に告げなければ、此の婦人は、終に無宿者と認められ、犬猫の様に葬られる事は、必然である。

 若し故郷に在って死亡したなら、立派な葬式を営んで、貴顕紳士に迄も、見送られる身なのに、身許を告げる者が無い為め、浅ましい仮埋めに逢うとは、悲しんでも猶(なお)余りある事なので、お蓮は何と無く悲哀を催し、猶(なお)も四辺(あたり)を見廻すと、壁の彼方に、筆太く書いた、その筋の張り紙があった。

 「誰に限らず、此の死人の身許を知る者は、早速書記局まで申し出でる可(べ)し。書記局詰合の役人、直ちにその言葉を筆記して、夫々の手続きを行う可し。」
と記してあった。

 此の張り紙を読んで又も思うに、先夜誓いを立てたけれど、それは唯此の婦人が殺された事を、他言しないだけの約束でしかない。今、書記局に入って行って、此の婦人の名前からその身の上及び親類などの事を、言い立てたからと言って、その殺された次第をさえ明かさなければ、誓いを破る事にはならないので、曲者としても、之を咎める事はよもや無いだろう。

 独り問い独り答えて、漸(ようや)く思案を定めたけれど、まだ何と無く曲者の事が恐ろしく、若しや我が身の辺に、その手下とも覚しき者が、附き添っては居ないかと、私(ひそか)に後前を見廻したが、別に胡論(うろん)の者も無かったので、漸くに度胸を定め、戦(ふる)える足を踏み〆め踏み〆め、辛くも書記局の入り口に近寄ったが、是から将にその敷居を跨(またが)んとする丁度その時、何者かが、お蓮の耳の傍で、
 「用心せよ、此の敷居を内へ跨いだら、娘お仙の命は無いぞ。」
と細語(ささや)いた。

 此の一言に、お蓮は、頭から冷水を浴びせられた様に驚いて震え上がり、さては先刻から我が身の傍には、見え隠れに数多の番人が附きまとって、一々我が振る舞いを見張って居たのか。それにしても、今この様に細語(ささや)くのは何者だろうと、早やくも後ろに振り向き見ると、不思議や、曲者の手下と思われる者は、一人も無し。唯背後の方に、頬髯の生え茂った、職人風の男が、非常に真面目な顔で、立って居たが、その男は口に巻タバコを咥へ、余念も無く死骸を眺めて居たので、細語(ささや)く暇が有ったとも思われない。

 是によってお蓮は、彼の曲者の力が非常にして、油断なく行き届く事を悟り、暫(しばら)くは、余りの恐ろしさに、如何したら良いか分からなかった。今まで張り詰めて居た勇気も、此の恐ろしさの為に弛んで、書記局へ入る気力も無く、唯顔の色を青くして、すごすごと縦覧所を立ち出でた。

 そもそもお蓮は、姿が麗しい上に、化粧の道に巧みだったので、その年は、未だ三十にも足り無い様に見えるが、実は既に四十に近く、今年十七歳計(ばか)りになる、愛女(むすめ)が有る。しかしながらその事を他人に知られては、営業(なりわい)の上に、不都合が少なく無いので、幼い頃から田舎の里に預けてある。

 月に二、三度、人知れず忍び見るだけで、最も親しい人にすら、その事は秘(かく)して置いたのに、曲者は如何にして、その愛女(むすめ)の事を知り、如何にしてその名までも知り、今の様に細語(ささや)いたのだろう。之を思うと曲者の力は、実に限り無しと、且つ恐れ且つ疑いながら、二足三足縦覧所の外に踏み出した。此の時背後から来て和(やわら)かにお蓮の肩を叩き、

 「オヤ、お蓮さん」
と呼び留める者があった。お蓮は既に驚いていた上に又も驚き、何人だろうと見返った。
 それにしても、此の人は何者だろう。


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