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悪党紳士 (明進堂刊より)(転載禁止)
ボアゴベ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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悪党紳士 涙香小史 訳
第八回
写真挿(ばさ)みの裏面から出て来た、怪しい書き物を、有浦は取上げて、
「読んでも好いかえ。」
何の書付かは知ら無いが、読まれては一大事と、お蓮は震える手を差し延べ、
「イエ、了(いけ)ません。私が読みますから、サア此方(こっち)へお寄越し下さい。」
有浦は書付を持った儘(まま)で、お蓮の様子をつくづく眺め、
「全体其方(そなた)は、何(ど)うしたと云うのだ。此の書付を見て、急に手の震える所から、朱唇(くちびる)まで青くなった所を見れば、きっと深い仔細が有るだろう。コレお蓮、其方は、此の有浦にまで隠すのは間違いだよ。斯々(こうこう)と打ち明けて呉れさえすれば、火の中を潜(くぐ)っても、其方の身を助けて遣る。其様に隠すのは為に成らないよ。」
此の男らしい親切は、深くお蓮の心の底まで浸み通った。明かされる丈の事は打ち明けて、此の勇ましい士官の助けを乞うのに、勝る事は無いと、早くも心を取り直し、
(蓮)ハイ、もう貴方に隠す事は有りません。お読みなさって、聞かせて下さい。
(有浦)フム、爾(そう)打ち明けて呉れさえすれば、其方の敵は私の敵だ。何事か知ら無いが、もう心配には及ばない。ドレ。
と云いつつ読み掛けて、
(有)オヤ、是は変だ。書置きだ。イヤ、遺言の様な書き方だぞ。
と言って読み下す文に言う。
「妾(わらわ)は、英国貴族花房家の女主人、妹李(まりい)夫人である。此の一通は妾が遺言である。まだ若くして、身体は健康にして、心も確かではあるが、不意に命を失うのも、計り難いので、心の確かな中に此の遺言を認(したた)めて置く。
妾は先年、土場の旅宿で怪しい死を遂げた、実兄花房丈次郎の遺志を嗣(つ)ぎ、丈次郎と仏国の山田蔦江女の間に挙(もう)けた一女、山田お仙に、遺物(かたみ)として、妾が身代を譲るものなり。妾が遺物(かたみ)は正金で10万ポンド(六十万円)《現在の日本円で少なくても10億から20億円》、英国の銀行に預けてある。妾死する後は、此の金は総て、お仙の随意にすべし。
妾は十年以来、蔦江女及び其の一女お仙等と、一切の交わりを絶ち、今は其の何れに住むかを知ら無い。仄(ほの)かに聞けば、蔦江女今は花房屋お蓮と名乗っているとか。妾は今から所用あって仏国に赴く故、幸いにお仙を尋ねよう。若し尋ね当たったなら、仕合せだが、之を尋ねるのは甚(はなは)だ危うい。
妾とお仙の間を割き、此の身代を奪おうとする者があれば、妾はお仙を尋ね当てずして、兄丈次郎と同じく、非業の死を遂げるかも知れない。若し其の時は、何人であっても、此の遺言書を見出した人、願わくは、直ちに領事庁に差出し、官の手を借りて、妾が身代をお仙に譲る道を運んで欲しい。お仙から相当の謝礼があることは、妾が保証します。
又万一にも、お仙が既に死し、此の世の人で無いならば、十万ポンドの正金は倫敦(ロンドン)と巴里の慈善病院へ、半々に寄付する事を望むものです。以上正に英国貴族、花房夫人妹李(まりい)の真の遺言である。真実の願いであります。謹言
月日
読み終わって、有浦は事の様子を半ば悟り、成る程、是は意外だ。山田蔦江女とは其方(そなた)の事だナ。
お蓮は細い声で、
「ハイ」
(有)シテ其方には、娘が有るのだナ。是は知らなかった。アア道理で其方が、折々田舎へ行くと言って、二、三日居無くなる事が有ったテ。併し、まあ、其のお仙とやらの、生きて居るのは仕合せだ。早速官に届けを経て、此の遺言の通りにしなくては。
と聞いて、お蓮は非常に当惑の様子で、
「イエ、爾(そう)は出来ません。」
有浦は驚き怪しみ、出来無いとは何故に。仮令(たと)え其方がお仙の親でも、此の譲り受けを、妨げる事は出来ないよ。遺言を取り消す事は、何(ど)う有っても出来無いから。
(蓮)イエ、それでもこの様な事を、娘お仙の耳へは入れられません。お仙は今まで、私の素性を知らず、相当の婚姻をして出来た正当の子と思って居ます。今此のことを知らせては、私と丈次郎が、婚姻しない前に出来た、私生の子と云う事が分かります。何も知ら無い清き娘に、父母の恥を知らせては成りません。
(有)その心配も一応は尤(もっと)もだが、生涯隠し遂(おお)せる事は出来ないから、其の様な愚痴は言って居られない。此の遺言書が有るからは、其の筋へ、此の花房夫人とやらの死んだ場所と死んだ月日を、言い立てさえすれば、其の身代は一日も経た無い中に、直ぐお仙の手に入るのだ。それを母親が妨げる筈は無いよ。
と正直一図に推して来る有浦の此の言葉に、お蓮は益々当惑した。
(蓮)爾(そう)は出来ません。
(有)ナニ出来無い事は無い。之をするのが親の務めだ。既に此の書が、其方の手に落ちたからは、無論此の花房夫人は死んだに違いない。死んだ者なら、其の場所と月日は、其方が知って居るだろう。知って居る事を其の筋へ言い立てるのに、何の難しい事が有る。
(蓮)でもそればかりは出来ません。
有浦は益々怪しみ、
「ハテ、変な事が有る者だ。夫(それ)でも未だ、外に深い仔細が有ると見えるナ。」
(蓮)ハイ、仔細は有りますが、何うぞ是ばかりはもう聞かないで下さい。お問いなさっても、打ち明ける事が出来ません。ハイ打ち明ければ、お仙が何の様な目に逢うか知れません。
(有)夫(それ)は益々不思議だ。お仙が酷い目に逢うとは、ハテな、軍人の身として、か弱き乙女の難儀を、其の儘(まま)聞き捨てにする事は出来ない。好し好し、何の様な事が有ろうとも、お仙は保護して遣る。サア誰がお仙を、其の様な目に逢わすと云うのだ。もう心配する事は無い。サ打ち明けて、打ち明けて。
(蓮)イエ、爾(そう)仰って下さるのは、有り難う御座いますが、是ばかりは、好し打ち明けても無益です。敵は非常な悪人で、身を隠して居て、私達を苦しめるのですから、致し方有りません。何所に住んで居る事か、何の誰と云う人か、夫(それ)さえ分からず、又其の顔さえ知りませんから。
(有)何(ど)うも余り不思議過ぎて訳が分からぬ。其方が真逆(まさか)、此の俺を騙すのでも有るまいナ。
(蓮)何(ど)うして貴方を欺(だま)しましょう。
(有)爾(そう)サ、見て居ると、其方の顔色が青くなったり赤くなったりするのは、嘘偽りではないだろうテ。夫(それ)に此の遺言を見て、其方が喜び相な者なのに、却(かえ)って当惑の様子が有るとは、尋常(ただごと)だとは思われ無い。
(蓮)ハイ、実に尋常(ただごと)では有りませんから、打ち明ける事が出来無いのです。
有浦は、暫(しばら)く手を拱(こまね)えて考えていたが、流石は心広い士官の事だけはあって、早くも思い返した様に、
「爾(そう)だ。誰でも他人に話され無い秘密は、必ず有る者だ。無理に聞こうとしたのは、私の粗忽(そこつ)だった。併し又、其方が篤(とく)と考へた上で、何(ど)うしても自分の力に合わ無いと、思う事が有るなら、其の時は早速私に言って来るが好い。私も永い友達だから、其方の難儀と有れば、何時でも男の力の及ぶだけは、相談相手に成るだろうから。
此の実意ある有り難い言葉に、お蓮は思わずも両の目に涙を浮かめ、有浦の手を握って、
「イエ、もう毎度(いつも)ながらの御親切は忘れません。」
と震える声で、心一杯の礼を述べたが、思い見れば、今若し、彼の縦覧所に曝されてある夫人の死骸を、此の儘(まま)に見過ごして、其の筋に言い立てなければ、夫人は終に宿無しと為って葬られ、其の死去した証拠が、無い事になって仕舞うので、娘お仙に降り来る、此の遺金も、生涯受け取る事は叶わなくなる。
親の身として、如何して我が愛児(むすめ)の、此の上無い幸いを、妨げる事が出来よう。深く我が愛児(むすめ)を思って、悪人に殺される事も厭(いと)わなかった、花房夫人の厚い情を、如何して空しく捨てられるだろうか。だからと云って、此の事を官に言い立てたなら、彼の曲者等が、如何なる仇を為すかも知れ無い。アア、如何したら好いだろう。如何したら好いだろうと、独り思案に迷い入るお蓮の心は、憐れだ。
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