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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第十一回

 是から梅林雪子が裁判所に引き出され、憐れむべき裁判を受ける顛末に移るべきであるが、その前に未だ記して置く事が多い。第一に先づ毒殺されたその夫、梅林安雅(やすまさ)が事を掲げよう。
 梅林家と知られるのは、英国では五本の指に数えられる豪族にして、古えから幾代となく血統連綿と続いて来た。その先祖の中には、国の為に名を挙げて、今なお歴史に記される人も有ると言う。

 その屋敷は最も景色に富んで、山媚び水笑うの辺に在り、庭園の広くして且つ古いのは、見る人には宛(さなが)ら天然の勝地を囲い込んだかと疑われる程である。老木あり珍草あり、樹には英国第一等の甘味を備えた菓物実り、草には世に類も無い美しい花を咲かす、実に是極楽園である。

 この極楽園に住む二人の主人(あるじ)を何者だと問うてみると、世界に是ほどの不幸な者は無い安雅と雪子である。知らない人には羨まれるばかりであるが、二人は唯憎しみ合うだけで、別れることが出来ない。婚姻という同じ鎖に縛られて、共に一身の自由を失い、一年360日、笑顔の何たるを知らず、溜息の中に身を埋めている。

 数代以前までは、家内親戚の多きを以って誇っていたが、この家の絶える時節と為ったのか、次第に親戚は滅び尽くし、当代に到っては、唯当主(あるじ)安雅があるだけ。安雅は身内も無く、縁者も無いけれど、その代わりに、財産は、滅びた親戚の財産を唯一家に集める事になったので、四方殆ど十里の間は、梅林家に年貢を納めない者は稀である。

 安雅の気質は如何(いかが)かと問うなら、極めて善人と云う程では無いが、素より悪人では無い。豊かな家に生まれて育って、充分の教育を受け、その上に広く社交の社会にも揉まれた程なので、行儀作法も欠く所なく、実に際立って勝れた紳士である。生涯に唯一度の大失策は、己を愛さぬ雪子をば娶(めと)った一条である。

 この外には、他人に迷惑を掛けた事もなく、恨まれた事も無い。非道な地主家主の間に在っては、非常に憐れみ深い質(たち)であって、鬼々しい催促を為さず、人と法廷に勝ち負けを争そった事も無い。だから知る人は誰でも安雅を愛し、近傍で娘を持つ母親は誰一人安雅の妻に遣(や)りたいと願わない親は無く、物持つ家の令嬢にも、安雅に言葉を掛けられ、私(ひそか)に喜ぶ者も多かった。

 しかしながら安雅は、四十に近い年に至るまで、嘗(か)つて女を愛した事は無く、独身で家を治め、全く不品行の謗(そし)りを受けた事が無い。一度び雪子を見初めるに及んで、四十の初恋忽(たちま)ちその心を燃やし、自ら耐え忍ぶことが出来ないところにまで至たったのだ。

 初め雪子の家に行ったのも、別に深い仔細が有った訳では無い。唯その父から、納めるべき地代が二年以上も溜った為、保養方々その土地に行ったのを幸いに、様子だけ見届けようと、その家に立ち寄ったのだが、是こそ一生の運命を転じ去る本にして、荒れ果てた応接の間に、雪子の姿を見てからは、煩悩の犬が狂って止まなくなった。

 幾度か思い直して、我を愛さない者を娶(めと)り、我が妻にするのは邪険であると、自ら心を諌(いさ)めた事も有ったが、真の愛ほど心狭い者は無い。雪子を容(い)れて他人を容れず、雪子は我が為の命である。我が為の世界である。雪子なければ命も命では無い。世界も世界では無いとまで思い詰める事となった。

 更には雪子は、年は未だ十七を過ぎない事と言い、今でこそ我を愛してはいないが、気永く親切を尽くす中には、愛情を発しないと言う事は有る筈が無い。雪子を娶ることは、我に幸いを与える事である。その父を助けることである。その伯母の意に従うことであると、自分の心に理由を付け、善根功徳の様に思い、手を尽くして妻とすることと為ったのだ。

 全く是、恋という曲者の為す業にして、強(あなが)ち咎めるべきことでは無い。この様にして雪子を娶(めと)ってからは、殆ど自分の財産を傾けるまでに費用を極め、その機嫌を取ったが、雪子と安雅は生まれ附いての敵と見え、安雅が益々近づこうとすると、雪子は愈々(いよいよ)遠ざかり、雪子愈々遠ざかれば、安雅益々近寄ろうとし、何時になったら和合する事が出来るとも見えなかった。

 努(あせ)り努(あせ)って、その魂の尽きのるに及んで、初めてその心が一転し、今までの愛情は忽(たちま)ち憎しみの心と為り、顔を合わせても口さえ聞かず、唯睨み合う事とは為ったものである。この憎しみを紛らす為にと言って、二人とも宴会(パーティー)を開き、他人と交わりを結ぶことを以って、唯一つの仕事と為した。

 安雅も雪子も世間に非常な人望を得、その土地に来る者は、梅林の家に入り、その夫人の顔を見ない事を恥じと思い、土地の人は我が郷にこれ程までの美人ありと言って、打ち誇る種と為した。しかしながら、交わりが頻繁になるのに従い、夫婦の不和は益々人に知られ、末には如何なる事になるだろうと人々は、蔭ながら気遣って居たところ、終に恐るべき毒殺と為り、憐れむべき美人の獄と為って、疑わしい重罪の裁判と為って了(おわ)った。

 安雅は、これ程まで広く世間に交わった身なので、その毒殺に逢ったと聞くや、世間の人は愕然として驚き騒いだ。更に又その妻雪子が、嫌疑を以って捕われたと聞くに及んでは、人々の仰天は沸騰して狂気と為った。

 初めは誰一人、事実として信じる者は無かったが、後に至ってその証拠を聞けば聞くほど、我と我が身を疑うまでに怪しみ惑う事と為り、雪子が牢に入れられてからは、人々の口には、雪子が雪の様に白くは無いのでは無いか、この裁判は如何(どの)ように成って行くのだろうかと、そればかりを言い出して、外の言葉は出て来なくなった。

 雪子一身の禍いは、殆ど英国全社会の人の口を奪った。是れが裁判以前の有様である。



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