bijinnogoku12
美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ作 黒岩涙香、丸亭素人 共訳 トシ 口語訳
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美人の獄 黒岩涙香、丸亭素人 共訳
第十二回
梅林雪子の裁判は6月26日の公判と定まって、今日は是れ23日である。公判は早や三日の内に迫った。雪子は独り未決檻の中に在り、弁護人服部勤に教えられた様に、神に祈るの外は為す事も無い。我が運を神に任せ、朝起きてから夜に入るまで、一人狭い部屋の片隅に俯(うつむ)いて、祈りの声を絶やさなかったが、祈るうちにも時々その心は迷い、我が身の上を考えて見ると、唯だ恐ろしさに迫られて、生きた心地もせず、泣き腫(は)らした両の瞼(まぶた)は、無量の悲しみを帯びたた上に冠(かぶ)さり、見るのさえ痛はしく、泣いては祈り、祈っては泣き、永い日を唯涙の中に送るばかり。
今しも何か思い出す事が有ったと見え、蒼ざめた顔を上げて、
「こう永く人の顔を見ずに居ては、世に捨てられた思いがする。世間ではもう、この雪子を捨てたのか。切めて一人でも慰めて呉れる人が有ればーーー弁護人はアレ切り顔も見せず、我が事を忘れたのでも有るまいけれどーーー。
アノ親切な牢女でも来れば好いのにーーーー、もう夜食の時までは、来る事も有るまいがーーーー、来たとしても、大抵は忙しいから、親切に話しなどして呉れる時は、数度に一度ーーー。この様になって見ると、我が身に何の罪が有って、この様な苦しみを受けるのだろうか。一層生まれて来ない方が好かったのに。
十三の歳から辛い思いをし尽くして、その上げ句が人殺しの罪人とは、余りに神さまも、見ていて下さらない仕打ち、アア祈っても届かないか。」
と独り繰言に果ても無い。この様な所へ静かに入口の戸を開いて、非常に陰気な顔を出したのは、是れ牢番の老女である。名前は何と呼ばれるのかは知らないが、多くの女囚に伯母さんとだけ呼ばれている。雪子はその顔を見て、嬉しさに我慢がならない様に、
「アア好く来て下さった。私はもう一人で泣いてばかり居ましたがーーー。」
牢女は憐れみの色を帯びて、雪子の傍に寄って来た。雪子は宛(あたか)も我が母を見る様に、その首にすがり附いた。
女「悲しいのも尤(もっと)もだけれど、お前はもう公判の日取りも近くなるし、何か食べて身体を養って置かなければ了(いけ)ないよ。身体が弱いと、それに連れて心まで弱くなるから、見れば朝晩の弁当にも、手を附けて無い様だが。」
雪「イエ、伯母さん、私はもう恐ろしくて、何も食べたく有りません。」
女「イヤ、食べずに居ては、公判を受けるのは猶更(なおさら)辛くなる。欲しい物が有れば買って来て遣るから、遠慮なしに云うが好い。」
雪「イエ、何も要りませんから、少しの間ここに居て下さい。貴女がここへ来てから、女で死刑に為った者が有りますか。私はそれが聞き度いと思いますワ。」
女「そうだねエ、女で死刑と云うのは少ないが、でも十年の間に二人有りましたエ。」
雪「その罪は何の様な事で。」
女「一人は自分の産んだ赤ん坊を殺した罪で、死刑に成ったが。」
雪子は思はず身震いして、
「赤ん坊を殺して、先(ま)ア、その様な邪険な事を。」
女「そう、余り邪険で事実だとも思われない程だけれど、それでも充分な証拠が有ったとやらで、英国第一の弁護人が弁護したけれど助からず。」
雪「その女は恐れて居ましたか。私の様に。」
女「アア恐れて居たよ。子を殺すのは恐ろしくない程の女でも、我が身が殺されるのは、恐ろしい者と見える。」
雪「今一人は何(ど)うした女です。」
女「今一人は毒を飲ませて人を殺したと云う罪で。」
雪「エ、エ、毒を呑ませてーーー。その女は恐れて居ましたか。」
女「アア恐れて居たともネ。」
雪「矢張り弁護人が附きましたか。」
女「弁護人は附いたけれど助からなかった。」
雪「誰に毒を呑ませたのです。」
女「初めは自分の伯母に呑ませ、次には父に呑ませ、その次には夫に呑ませたと言う事で。」
雪「でも伯母さん、私ほど年の行かない女ではないでしょう。私は未だ二十一に足りませんよ。」
女「そうだねえ、両方ともお前よりは年上で有ったが。」
雪「私も夫に毒を呑ませた罪ですが、世間では私を罪人だと云いますけれど、全く私には罪が無いのです。決して覚えが有りません。それをこの様な牢などへ入れるとは、余りの事だと思います。」
と云いながら、声を放って泣き伏せた。
牢女も雪子に罪無しと思うのか、
「可哀相に。」
と呟(つぶや)きながら抱き起すと、雪子はまだ涙に咽(むせ)んだ声音(こわね)で、
「私は是ほど恐ろしい事は知りません。今までは殺人と云う事は聞いても、人などを殺す様な邪険な世界とは、全く別の所に住んで居る様に思って居ましたのに、それが今は、我が身の事に成り、アア恐ろしい、何(どう)すれすれば好う御座いましょう。」
女「罪が無いのに、間違って罰せられる様な事も無いだろうから、更にこの上とも、神様に祈るが好い。唯恐ろしいと言っても、及ばない事だ。」
とこの様に慰める折しも、牢を守る人の足音が聞こえて来たので、牢女は周章(あわて)て立ち、
「今頃こうしてここへ来るのは、規則に背くのだけれど、余りにお前を可哀相に思うから逢いに来たのだ。アノ足音は番人だろう。見つかっては叱られるから、又折を見て来ましょうヨ。その様に泣かない方が好い。食べる物もたんと食べて身体を丈夫にして置くのが第一だ。」
と親切な言葉を残し、牢女は怱々(そこそこ)に立ち去った。後に雪子は又も泣き臥(ふ)すばかりだった。
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