巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

           第十四回

 雪子は目を閉じて過ぎ去った事を考えて見ると、冬村凍烟(とういん)は親しく梅林安雅と往来したが、他の人々ほど永く逗留する事はなく、偶々(たまたま)三、四日泊る事があっても、常に安雅を相手にして楽しむだけ。雪子の傍に永居した事も無く、雪子と熟々(しみじ)みと話した事も無い。

 仮令(たと)え他の客で、雪子を愛したりする人があっても、この人に限っては、その様な景色は無く、主ある花と断念(あきら)めて、愛の心を隠して居たのかは知らないが、牢屋まで来て切なる言葉を吐く人だとは、夢にも思い寄らなかった。雪子は漸(ようや)く目を開いて、
 「何うも私には合点が行きません。」

 冬村は解明かす様に明らかな言葉で、
 「イヤ、合点が行く行かないは二の次で、唯私の愛情を承知して下されば好いのです。私は我が命まで貴女の足下に投げ出して、貴女の愛情を得度いのです。」

 雪子は身震いして後ろに退き、
 [愛情、愛情と仰(おっしゃ)って下さいますな。愛情ほど恐ろしい者は有りません。貴方が私を親切にして下され、憐れんで下さるのは、この上もない御恩ですが、愛するとはーーーー、その愛と言う言葉からして、私は恐れます。」

 冬「でもこの通り愛する者を。」
 雪「了(いけ)ません。ハイ、私は愛と言う事を知りません。知りたくも有りません。それにもう二日しか命の無い私を。」
 冬「二日は愚か、是きりで命が無くとも愛します。残らず貴女を疑って居る世間の人に、唯一人貴女を信じ、貴女を愛する者の有る事を見せて遣るのが、切めてもの腹癒(はらいせ)では有りませんか。」

 雪「でも貴方、その様にお愛し成さらずと、親友に成って下さる事が出来ましょう。恋人に成らずと親友に成って下さる事が出来ましょう。恋人に成らずと恩人に成って下さる事が出来ましょう。愛せずに助けて下さい。」
 冬「愛さない事は出来ません。親友に成っても愛します。恩人に成っても愛します。」

 雪子は深い溜息を洩らすのみ。
 冬村は一層の熱心を添えて来て、
 「貴女が放免に成った後に、私の妻に成ると唯それだけを約束して下されば好いのです。妻に成って貴方の身を私に守らせ、助けさせて下さる事が出来ませんか。一度私の妻に成れば、貴女の身にかかる一切の困難を払い退けます。貴女を疑うこの汚れた土地を捨て、裁判も無く、世間も無い極楽の様な国を探し、気兼ねもなく苦労もなく、別の人に成って生涯を貴女と共に愛の中に送ります。」

 雪「でも私が殺されれば何う成さいます。」
 冬「万一その様な事に成れば、私の愛は貴女と共に墓の下へ埋まります。埋まって貴女を愛します。是でも貴女は婚姻の約束が出来ませんか。」
 雪子の決心は石よりも堅い。冬村の熱情も是を熔(と)かすことは出来ない。

 雪「何と仰っても、私は未だ男を愛することは知りません。愛情が無いのです。愛情が無いのに梅林と婚姻して充分に懲りました。愛情の無い婚姻は決して再び致しません。」
 冬「でも追々私を愛する様に成りましょう。」

 雪「イエ、成りません。若し私に愛情の種が有る者なら、今までに出て来ています。私には愛情の種が有りません。貴方の御親切、貴方の尊いお心は充分に分かりました。死ぬ時迄忘れません。それでも私は愛の無い婚礼は出来ません。」

 冬「でも愛そうと勤めれば、愛する心が出て来ましょう。」
 雪「イヤ、愛する事を好みません。勤めても種の無い者は無益です。私は貴方を好み貴方を敬い、これ程までも仰って下さるのは、又と無い真の友と思います。けれども愛する事を知りません。若し愛の無い婚礼をすれば、貴方を好み、敬う心も消え、真の友でも無く成ります。再び愛の無い婚礼をすれば、復(もと)の通り又憎み合う仲に成ります。」

 冬「イヤ、私は生涯掛かっても、貴女に愛情を教えます。起こさせます。」
 雪「イエ、了(いけ)ません。梅林安雅もその通りの事を言いましたが、終にはアノ通りです。私は愛の無い婚姻に懲りて居ます。」

 冬「それでは仮令え生涯かかっても、貴女に愛の出るのを待ちます。待っても了(いけ)ないとは、仰(おっしゃ)らないでしょう。貴女の口から唯一言、待って居ろと仰って下さいませ。待って居る間に、若し愛情が出れば妻に成るからと、こう仰ってさえ下さらば、私はそれを楽しみにして、必ず貴女を救い出します。必死に成って貴女を自由の身にします。待って居ろと仰って下さい。」

 雪「その言葉を言わずに、私を助けて下されば、何れほど有り難いか分かりません。」
 冬「イヤ、貴女が待って居ろと仰って下されば、それを力に貴女を救うのは勿論の事、火の中でも潜(くぐ)ります。そう仰って下さらなければ、失望に力が抜けます。助け度い心は一つでも、助ける力が無くなります。」

 雪「イエ、愛の無い婚姻は死に優る苦しみです。愛の無いのに婚姻してまで、この命を助けようとは思いません。私は愛という言葉は、聞くだけで身震いが致しますから、何うか愛ばかりは助けて下さい。貴方ほどの親切がお有りなされば、世間の女は誰でも貴方を愛しますからーーー。」

 冬「イヤ、私の為には、貴女の外に女は有りません。」
 雪「そう仰って下さっては、私もこの御恩にほだされます。何うにかして、愛情を知って居る世間の女に生まれ代わって、その上で貴方を愛して見たいと思います。ハイ貴方を愛する女が、羨ましう御座います。それでも私には、愛する事が出来ません。婚礼する事が出来ません。」

 冬村は耐え兼ねて、更に何事をか言い出そうとしたが、この時牢番の声として、
 「面会の刻限が切れました。」
と叫んだ。
 刻限が切れては、如何(どう)するにも術(すべ)が無い。冬村は非常に惜(お)しそうに立ち上がり、

 「何うしても愛する事が出来ないとならば、唯友達でその愛の出る時を待って居ましょう。でも明後日の公判廷へは、誰よりも先に入り込み、貴女の身に最も近い所へ座を占め、及ばずながら貴女の身を祈ります。貴女は、我が身の傍に、これ程までも貴女の為を思う男が居ると思えば、幾分かお気が休まりましょう。切(せ)めては、唯一言気休めに成ると仰って下されば、それを力に引き取ります。」

 雪子は愛情は知らないが、この親切には痛く心を動かし、
 「ハイ、実に気が休まります。幾倍も心が丈夫です。貴方は真実に心の貴い方です。この御親切は冥土への土産です。」
 冬村はこの言葉の嬉しさに我を忘れ、雪子の手を取り上げて握りしめ、
 「公判が終われば、直ぐに又面会を求め、再びこの事を説きますから。」

と云う中に、外から又も牢番の急き立てる声が聞こえて来たので、冬村は首を垂れ、悄々(しおしお)として立ち出でて去った。雪子は藁(わら)の寝床に身を投げながら、声に咽(むせ)んで泣き入った。
 この日から、この夜、この翌夜の明けるまでも、第二十一号の獄中には、神を祈る声が、絶え絶えに聞こえていたと言う。



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