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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

           第十五回

 六月二十六日は、これ公判の開廷である。憐れむべき梅林雪子の運命を定める日である。朝から天気朗らかに晴れ渡って一点の雲も無く、唯微風が軟らかに吹いているが、塵を揚げるほどでは無い。雪子は夜の明けるまで神に祈り、今日はこの世の見納めと思うと、哭(なかこ)うとしても泣く涙は無い。哀(かな)しもうとしても悲しむ心は無く、魂既に消え、気既に尽き、目はあっても何も視(み)ていないかの様であり、耳はあっても何も聞いて居ないようだ。

 心神唯朦朧(もうろう)として夢路の人かと疑われる。アア雪子は不幸の為悲しみの為我が身を既に絞り尽くし、我が身にして我が身に非(あら)ず。人にして人ではない身の上に至っているのだ。

 弁護人服部勤の苦心は、又雪子の悲しみに優るとも劣っていない。弁護の箇条を考え尽くしたが、未だ雪子に係わる疑いを、解くには至っていない。我が身は堅く雪子に罪の無い事を信じては居るが、如何(いか)にして陪審官の心を動かしたら好いか、陪審官は雪子が非常にその夫と憎み合っていたのを知っている。

 安雅が苦痛の中から雪子を指さした事を知っている。外の箇条は破って破れない事は無いが、この二箇条は破るのに方法が無く、是だけで雪子を罰するのに余りあるのだ。独り相談の相手と頼むのは、雪子に非常に親切を尽したと言う、秋谷愛蘭だけで、愛蘭と共に雪子に面会し、三人頭を悩ました事も有ったが、唯同じ当惑の言葉を繰り返すだけだった。愛蘭は、服部に向かって、

 「何(どう)だろう。助かる工夫は無いだろうか。」
と言うと、服部又愛蘭に対して、
 「そうですね、何にしても、当てには成りません。」
と嘆息しながら答えるばかりだった。アア雪子は、終に絞首台に吊るされる人と為ってしまうのか。

 罪が無いのに罪に当てられようとしている。是ほど恐ろしい事は無い。頓(やが)て裁判開廷の刻限に近づいた。この裁判の様に人心を騒がせたものは無い。道を行く人、老いたると若きの別なく顔を合わせれば、

 「傍聴切手(キップ)を得ましたか。」
 「イエ未だ手に入らないので、この通り奔走中です。」
と承(う)け答えをしない者は居ない。数日以前から、この言葉は殆ど一般の挨拶の言葉と為っているのだ。限り有る切手(キップ)なので、限り無い傍聴者に行き渡る筈がないので、切手に失望した人々は、切て被告雪子の着物の端、弁護人服部の帽子の尖(さき)だけでも眺めようとして、市中は人を以って埋まるばかりである。

 この様な有様なので、幾十里を隔て、前日から前々日より、傍聴に来た者が有るのは言う迄も無く、仏蘭西(フランス)の貴族にして、この裁判を聞くことだけを目的とし、故々(わざわざ)渡って来た人も既に三人ある。この事件の評判の高いことが知られる。

 雪子の器量の好い事が、広く人に知られている事を思って見るべきだ。雪子の器量を知っているため、当日の傍聴人は男子の身に限らない。半ばは貴婦人淑女である。裁判所の門外は唯人と人との海の様で、右左(しき)りに押し合い、揉み合い進もうとしても進み難く、入る事が出来なくて門前から帰る者、入る事が出来なくても帰らない者、宛(さなが)ら一揆が起こったのに似ている。

 漸く警官の尽力によって鎮定するばかり。裁判所は牢屋から遠くない長方形の審問廷にして、前を傍聴の席とし、中程を罪人弁護人、証人等の集まる所とし、奥を判事、検察官、横手を陪審官に充てている。薄青い硝子の窓から射(はい)って来る光線は、満々たる人々の顔を照らし、その物凄い事と言ったら、言いようが無いほどだ。

 人々は新聞紙を読んで、雪子を罪とするための証拠は殆ど余りあることを知って居るので、雪子を無罪と思う者は、唯服部勤の外僅かに指を折るばかりである。
 雪子は法官の前に現れて来た。人々はその天女の様な有様を見て、非常に心を動かした。

 今までに雪子の美しさについては、聞いては居たが、その聞いていたのより、更に美しい事は、実に雪子の姿である。今までは、きっと顔に男子を弄する力があって、近寄り難い容貌に違い無いと思って居たが、雪子は唯是れ十八、九の少女である。清いことと言ったら雪の様で、衰えた顔に、深い憐れを留め、見るのさえも涙を催す程であったが、その美しさは、俗界を離れた美しさである。

 深く真の心を包み、慈悲深い色が透き徹って見えるのは、人の美人にあらずして天の美人である。神の使いでなくては、これ程までは清い顔を備えることは出来ない。満場は唯見惚(みと)れて息をも凝らす程であったが、ややあって、雪子の顔に充分生気が戻って来たのを見ては、互いに低唱(ささや)き合うばかり。

 「何うですアノ美しい顔は、アノ顔で何うして罪などを犯しましょう。罪人は必ず外に在ります。」
と云う者も有れば、
 「未だ満更の娘っこだ。アア何時までも立たせて置くのは可哀相だ。椅子を遣れ椅子を。」
と我を忘れて叫び出す者も有る。法官は漸(ようや)くに満場の低唱を鎮め得て、雪子に向かい、

 「その方は、世にも恐ろしい大犯罪、毒を以って夫を殺したと云う嫌疑に由り、今日この法廷で裁判を受けるのじゃ。」
と言い聞かせた。暫らくは音も無し。満場死んだかと怪しまれるほどだ。針の落ちる響きと言えども、未だ聞こえ渡るに違い無い。

 雪「イエ、私では有りません。」
と清き弱き沈んだ声で答えた。
 この時は誰れが復(また)雪子を罪人と思っただろう。
 判事はまた痛わるように、
 「この事件は、今までに例の無いほど合点の行かない事件で有るがーーー。」
と冒頭(まくら)を置いて、簡単に犯罪の顛末を説き聞かせた。是裁判の第一段落である。




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