巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第十七回

 古来数多い法廷の記録を紐解くも、服部勤が雪子の無罪を弁護した様な、壮快な弁護は未だ嘗(かつ)て見たことが無い所だ。その弁舌の爽やかなこと、その論旨の密なこと、聞く人々をして、思わず感極まらせた。弁論は四時間の久しきに渉ったが、誰もその永さに飽きる者が居なかった。

 服部は先ず第一着の弁論に於いて、雪子を疑うの情として論告せられた夫婦間が睦まじくなくて、平素争いが絶えなかったことは、この様な恐るべき毒殺の罪を造り出す原因には成ら無いことを弁明した。その理由としては、若し雪子に、果たして夫を毒殺する悪心があったものとすると、雪子は既に数年も前に在って、安雅を殺し果しているはずで、徒(いたずら)に快くない月日を、今まで待つものでは無いと論駁した。

 更に雪子に罪を犯す悪心の無い事を確かめる為に、雪子が年幼くして父の貧苦を見兼ね、我が身を犠牲に供えて結婚を承諾しなければ、他に之を助ける道が無いのを悲しみ、屡々(しばしば)梅林安雅に説いて、その無理なる願いを思い止まらせようと試みて見たが徒労となり、遂に行われて、涙の裡(うち)に結婚の式を挙げた事実を述べて、傍聴人の感動を惹(ひ)き起こした。

 この様にして服部弁護人は、順次に犯罪の事実に移り、雪子が手ずから珈琲の硝盃(コップ)を夫安雅に与えたのは、雪子の平素(ふだん)のやり方で、下女に珈琲の硝盃(コップ)を運ばせる事は、非常に稀なことである事は、既に証人として出廷した下女侍婢(こしもと)の証言で明白であるので、是れは又少しも疑いを容(いれ)るべき事情では無いと言い、更に進んで、雪子が夫安雅に珈琲を与えて、直ちにその席を去り、自分の居間に身を隠した事について、再び検事の論告を打ち破った。

 雪子は常に夫が四名の親友を招いて酒宴を催す時があれば、その席を名付けて、独身者(ひとりもの)の会と呼び、自分は之に近寄らずに、故(ことさ)らに居間に退いて居たことは、これ又雪子の習慣にして、決して怪しむには足りない。之を以って雪子が罪を犯した事の事実と、認めることは出来ないばかりか、この様な事実は、却(かえ)って雪子の善良潔白を証明すべき手掛かりになる事を説き、再び進んで梅林安雅が譽石(よせき)の毒に苦しみながら、雪子を目指して、俺(お)れを殺した下手人であると訴えた言詞(ことば)を弁駁するに至って、更に満面に感情を漲(みなぎ)らせ、一段とその音声を張り上げて、

 「不幸な梅林安雅は、その生前に在って、充分に夫人雪子を嫌いました。だから自然の人情から考えて見れば、自分が嫌う人又自分を嫌う人は、自ずから之を敵の様に思うことは、道理の無いことでは有りません。只運悪くも、雪子が手ずから与えた珈琲の中に、人を死に至らせる程の毒薬を含んで居たことなので、安雅が第一に雪子を疑ったことは恕(ゆる)すべきことで御座います。

 しかしながら、今ここに当時その席に連(つら)なった春田如雲氏、又は秋谷愛蘭氏など、是等の人が若しその珈琲を安雅に与えたと仮に定めたならば、安雅は必ず是等の人に疑を置くであろうと考えます。ですから珈琲を与えた者が雪子であったが故に、疑ったのではなく、珈琲に毒を含んで居たが故に疑を生じたことなので、雪子は実に時の不運に出逢ったもので、唯安雅が臨終の一怨言(ひとこと)に依って必ず之に罪ありと定めるのは、雪子の為に深く悲しむべき不幸で御座います。

 希(こいねが)わくは、裁判長及び陪審官閣下に、試みにこの所に佇立(たたず)んでいる被告雪子を一見せられよ。この様にあどけない姿、この様に艶(あで)やかな容貌(すがたかたち)、この様な温順(おだやか)な気質で有りながら、鬼人も及ばない大罪を犯した者と思われましょうか。」
と吾を忘れて説き出したので、不知不識(しらずしらず)聴く人の心を引き入れることとなった。

 この様にして、弁論は愈々(いよいよ)歩を進め、今は雪子の為に最も大切な事実、この事実の如何に因っては、結局雪子は再び自由の身となり、社会の人と手を携えて相交じわることが出来る幸いを得ることができる。若し一歩でも誤ったならば、憐れむべし、雪子は夫を毒殺した罪に因って、重い刑罰に処せられなければならない。

 事実とは即ち、譽石(よせき)の一袋を、雪子の化粧箱から発見した一点である。服部弁護人は更に容(かたち)を正して、
 服部「嗚呼(ああ)、裁判長、陪審官閣下よ、当被告梅林雪子は、如何(どう)してこの様な不幸な婦人で御座いましょうか。彼女が潔白の心からした行いも、却って反対の証拠として論告せられ、今や重ねて譽石を蓄わえた事実に就(つ)いて弁明を与えなければ成らない場合と成りました。

 如何(いか)にも雪子は譽石を所持致しました。之を買い入れました。之を化粧箱に入れて置きました。併し譽石は夫安雅を毒殺しようとする為に所持し、買い入れたものでは御座いません。年若い婦人の習性として、皆な面色(かおいろ)の美麗(つややか)なのを競う傾向があります。嘗(かつ)て雪子は譽石を水に混和して、水粧(すいしょう)に用いれば、皮膚の艶を増すこと之を超えるものは無いと聞き及んで、雪子は暫らくも猶予することが出来ず、直ちに譽石を買い入れました。

 併し雪子は予(あらため)て譽石が劇薬で有る事を思い返しました故、一、二度之を用いて、そのまま箱の中に納(い)れて置きました。之は一通り雪子が譽石を所持するの原因であります。シテ論告の様に、若し雪子がその譽石を用いて、自分の夫を殺害しようとの目的があったものならば、之を買うのに、平素自分が好く知られ、自分も又好く知っている隣郡の薬舗(くすりや)で買い、更にその舗(みせ)の帳簿に、自分の本名を記して置くとは、少しく矛盾した事実では御座いませんか。

 若しも心に悪意があるならば、自ずからその悪心が咎めて、是非その名前を隠蔽(いんぺい)するのが当然(あたりまえ)では御座いませんか。又一歩譲って、悪心が有ったものとすると、それを買い入れて、数ヶ月の間之を用いないとは、疑わしい事実では御座いませんか。その毒薬を用いて、夫を殺したものなれば、一旦医者が来て、譽石の為に死んだと言うことを呼び立てるのを聞き、雪子は他の事を思う暇なく、すぐその居室(いま)へ帰って、貯蔵(たくわ)えて置いた譽石を取り出し、棄(すて)るか焼くか、之を無くするのは悪事を働く者の、当然(あたりまえ)の行いで御座いましょう。

 雪子はその時譽石を隠しましたか、之を棄(す)てましたか、之を棄て、之を隠さない計(ばか)りか、雪子は安雅が非命の死を遂げた当夜は、自分が譽石を蓄えて置いたことをも打ち忘れ、之に気付かない有様では御座いませんか。この様であっても雪子が夫を殺害するの目的を以って、譽石を蓄え且つ之を毒殺したものと言うことが出来ましょうか。若し之を出来るとしたならば、世間に罪無くして刑罰を受けるものは、独り雪子のみでは無く、良民にして無実の罪に陥るものは、数多(あまた)御座いましょう。

 実に法律は頼み少ないものと成るのでは御座いませんか。嗚呼裁判長、陪審官閣下よ、私は事実の点から、状況の上から雪子の無罪潔白な次第を陳述致しました。最早この上は、何卒公明な御裁判あって、速やかに雪子をして晴天白日を見、自由の空気を呼吸させるの幸いを与えて下さい。」

と声も枯れ、舌も爛(ただれ)るまでに弁護した。この日、法廷に連なった陪審官を初め、満ち満ちた数万の傍聴人に至るまで、一旦は検事の論告を聞き、分明なる証拠の数多いが為に、雪子を疑うの念を起こし、今又服部勤の熱心な弁護を聞き再び、心を翻(ひるが)えして、雪子は果たして罪が有るものなのだろうかと思い惑う者も有った。

 此(ここ)に於いて、裁判長が弁論終結の旨を告げるや、陪審官は起(た)ってその控え所に退き、裁判宣告の評議を為した。嗚呼不幸な美人梅林雪子の運命も、今から数時間を出でずして定まってしまう。陪審官は検事の論告、弁護人の論弁を聞き、何れに多くの傾きを持つのだろう。
 雪子は果たして有罪なのか。雪子は果たして罪が無いのか、次回に於いて明らかになるであろう。



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