巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第二十回

 服部は話の緒(いとぐち)を開き、
 服部「別の事でもありませんが、今日の公判であの通り、貴女の無罪は最早争われない事と成ったからは、貴女も再びこの世に在って、生活を営むことが出来る身の上に成りました。併し貴女の為に考えて見ると、今後この土地で生活するのは、ドウも得策で無いかと思われます。是非この土地を離れなければ成らないでしょう。ソコで私の考えでは、今から直ぐに「リバプール」に行って、暫らく便船を待ち亜米利加へお渡りなさい。

 雪「そこには誰も知った人は居ないでしょうか。」
 服部「無論誰も知った者は居りません。」
 雪子は力無く、
 雪「その様に致しましょう。」
 服部「その様にするならば、先ず第一に貴女の名前を替えなければ成りません。梅林雪子と云えば全世界の過半は恐らく知って居りましょう。この名前は再び用いないことに決心しなければ成りません。今後貴女が愉快に日を送ろうと思うなら、是迄の有様は綺麗に打ち捨てて仕舞うのが良策でしょう。」

 雪「私もその様に思います。」
 服部「貴女の侍婢(めしつかい)、名前は何と言いましたか。」
 雪「那女(あれ)はお類と申しましたが、併し私はその名前だけは用いたく有りません。」
 服部「如何にも心配でしょう。それでは貴女の親母(おっか)さんの侍婢(めしつかい)は何と申しました。」

 雪「那女(あれ)は安部お丸と申しました。これならば大丈夫、生まれた土地の人でさえ好く知らない程でありましたから。」
 服部「それは実に絶妙です。早速それを貴女の名前と致しましょう。それで貴女はその指環を外さなければ成りません。改めて安部丸子嬢と成るのですから、最早梅林雪子夫人では御座いませんから、ソコで不幸な梅林雪子夫人はここで終わりを告げ、既に死んで仕舞ったことに致さなけれ成りません。」
と聞いて雪子の丸子嬢、

 「承知いたしました。」
とは答えたけれど、流石に悲しみの色を浮かべ、
 丸「アー、梅林雪子と言う名前は何様(どん)なに不祥な名前で有ったで御座いましょう。露ほども身に覚えの無い罪を言い掛けられ、獄屋の辱(はずかし)めを受け、世間の人に疑われ、果てはこの様な終わりを遂げると言うことは実に憐れむべきことで御座います。」
と潜々(さめざめ)と涙を流して嘆(なげ)いた。服部勤も不知不識(しらずしらず)にその情に誘われ、

 服部「如何にも御尤もです。御愁嘆は無理では御座いません。併し辱めを受けたのは、貴女の名前ばかりで、貴女の身は一点の穢れを見ない清浄潔白な体ですから、今後日に増し安楽な愉快な時が来る事は私が保証します。神の思し召しです。天地間の正道です。後を楽しみに今までの事は一切思い出さないと決心するのが好う御座います。」

 丸「もう思い切りました。決して悲しみません。」
 服部「それから今一つ決めて置かなければならないことは、貴女の今後の職業です。尤も貴女には貯金が有るようなお話も聞きましたが、兎に角職業を定めなければ不安心です。音楽と唱歌の教師にお成りなすったら如何でしょう。」

 新丸子嬢は少しく驚き、
 丸「私が教えるので御座いますか。」
 服部「そうです、しかし難しい様なら、少し勉強なされば直に覚えられます。それから最後に一つ忠告致度いことが有りますが、余り瑣(くど)く言ったらさぞ五月蠅いでしょうね。」

 丸「何を勿体無い、何卒(どうぞ)仰って下さいまし。」
 服部「外でも御座いませんが、ご存知の通り貴女については、各新聞紙が、人相から衣服まで詳しく書き載せて世間へ出し、おまけに肖像まで掲げて居ります。尤も私の見たのは、余り好くも似て居ない様でしたが、何(いず)れにしろ、今貴女が跡を暗まそうとすることですから、成る丈姿を替えて、人に知られない工夫が肝心だと思います。」

 丸「如何にも左様で御座いますから、貴方から充分お指図を願います。」
 服部勤は暫し両手を組み、花の様な丸子嬢の容貌(かおかたち)を打ち眺め、躊躇して言い出し兼ねていたが、漸く思い定め、
 服部「如何にも貴女に勧(すす)めにくいことですが、実は貴女の美貌(きりょう)の中でも、一際世間に立ち勝れて外に比類の無いものは髪の毛です。その色艶から豊富なこと、誰が見ても直ぐ梅林雪子夫人を思い出します。何卒これを・・・・・。」

 丸「それしきの事は何でも御座いません。私は些(ちっと)も惜(お)しいとは思いません。昔は父親が大層髪の毛を褒めまして、誠に綺麗だから大切に為(し)ろと申しましたが、最早誰一人気を着ける者も御座いませんので、早速先方へ落ち着きましたら髪を短く切って、色の変わる様に工夫致し、成るべく姿を替えることに致しましょう。」
とホロリと涙を落とす一滴、是れ女の情に違い無い。

 服部勤も見るに耐え兼ね、暫らく天を仰ぎ目を塞いで憐れを抑えて居た。この様にして空しく時を移しては、機会を誤ることもあるかも知れないと、
 服部「その様に御決心になった上は、私も折角忠告して満足に思います。幸い傍聴人も最(も)う散乱して了(しま)ったようですから、直ぐ馬車を雇ってご一緒に停車場へ参り、貴女が無事に出立するのを見送りましょう。それから貴女は梅林の家から何か取り寄せる品物は有りませんか。」

 丸「イエ、もうあの家の物には、一つも望みが御座いません。このままで宜(よろ)しゅう御座います。」
 服部「それじゃ早速出掛けましょう。」
と服部は丸子嬢の手を取って裁判所の小室(へや)を立ち出(いで)た。この時、日は既に西に沈み、巣に帰る鳥の声頻りに憐れを催す頃であった。住み馴れた故郷を離れて、見も知らない他国に旅立つ丸子嬢の心の中は、察してみると哀れである。この様にして、程無く馬車は停車場の入り口に止まった。服部は急ぎ馬車を下りて、切符を買い、之を丸子嬢に渡し、

 服部「永い旅のことですから、充分に身体を大切にして、「リバプール」に到着の上は、宿は海岸通の太陽館が(よろ)宜しゅう御座いましょう。それから先刻外した貴女の指環・・・・。アレを暫らく私が預かり申しましょう。その中御入り様の事が有ったら、早速手紙を下されば、お届け申しますから。何か・・・。」

 丸「誠にお礼の申し上げようが御座いません。何から何まで御親切なお取り扱いを頂きまして、何れ御恩を返す時も御座いましょうが、この末とも何分宜しくお願い申します。言うまでも無いことで御座いますが、私の行く先は誰にもお知らせ下さらないように、又この指環は再び私は用いませんから、何卒貴方のお手に納めて下さいまし。」
と涙を払って服部の面(かお)を眺めた。

 この時、時計は八時を報じて、宛も発車の時間が迫ったので、服部は丸子嬢を導いて客車に乗らせ、別れを惜しんで廊下に立った。やがて汽笛の声と共に列車が走るのを見送ると、嬢も列車の窓を開き、頭を延ばして見回(みかえ)った。




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