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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ作 黒岩涙香、丸亭素人 共訳 トシ 口語訳
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美人の獄 黒岩涙香、丸亭素人 共訳
第二十一回
服部勤は丸子嬢を見送った後、暫らく停車場の廊下に立佇(たたず)み、我を忘れて惚然(うっとり)としていた。嬢が別れを惜しんだ言葉が、まだ耳の底に残って、非常にその行く末を案じ煩(わずら)い、我が身も、共に嬢と運命を同じくした様に、嬢の身に係る惨(いたま)しい公判が終わってから、力も抜け気も疲れて、唯溜息を吐く計(ば)かりであった。
この様にして自宅に帰った後も、昼と無く夜と無く嬢の事ばかり思い出し、家事さえも心に留まらず、仕事をするのも打ち忘れて、病にかかった人の様だ。
以前から事務所に依頼して来ていた弁護事件には、某門閥家の一人息子の偽証罪を訴えられた被告事件があり、年齢未だ幼い処女(おとめ)にして、小児を謀殺したとの被告事件あり、又少年の窃盗罪があった。しかしながら服部は唯美人の獄の事ばかりを忘れ兼て、他の弁護事件は全く打ち捨てて省みなかった。
服部「アア、丸子嬢は潔白だ。決して夫を毒殺する様な悪婦では無い。たとえ安雅氏が残虐な手段で嬢を苦しめても、避けて近寄らない傾きの有る婦人だ。可哀相に長々獄に繋(つな)がれて、終には名を変えて土地を離れ、知らない他国に行くと言うことは何と言う不幸な婦人だろう。」
と独り嬢の身の上を語って余念が無い。
この時、冬村凍烟(とういん)は、雪子が既にその名も丸子と改めて「リバプール」に行ったとは気付かず、美しい雪子の顔を見て、更に吾が思いを語ろうと、梅林の家を訪れると、家を衛(まも)る下女下男ばかりで、雪子の影さえ見当たらない。夜番に問うと、唯夫人は未だ帰って居ないと言うばかりで、その音信すら知ることが出来なかった。
流石富豪の聞こえ高い梅林家も、門を鎖(とざ)し窓を閉じて、可措(あたら)廃家の有様と成っていた。音楽の音、唱歌の声が絶えなかった安雅の家も、今は虫の音、鼠の声ばかりが聞こえた。冬村はこの状(さま)を見て、驚く事と言ったら並大抵でなく、そして大いに望みを失い、そのまま車を飛ばし、服部勤の事務所に到って、雪子の行方を尋ねた。
それで服部勤は、冬村の問いに応(こた)えて、雪子の身の上を物語しだろうか、否々、服部勤は非常に義理堅い性質である。既にこの世を去った梅林雪子夫人、更に生まれた安部丸子嬢と、堅く誓って他人へ語らずと言い交わした行く末の事、迂闊々々(うかうか)冬村に漏らす筈は無い。唯雪子は公判が終わってから、何処(いずく)へか身を隠して、既にこの土地には居ない。」
と答えるのみ。
冬村は重ね重ねの失望に、この後如何なる事を為出(しでか)すか分ら無い。両人(ふたり)の紳士は互いに顔見合わせ、暫し言葉も発しなかった。
公判が終わってから三日を経た六月二十八日で、丸子嬢がリバプールに到着した日である。嬢は服部の勧めに従って、早速海岸通りの太陽館を尋ねたが、この太陽館と言うのは、この地に指折りの旅館で、何処(いずく)の貴婦人紳士でも、ここに足を駐(とど)める者は、大抵皆この旅館に投宿しない者は無い。それなので、家屋の構造も余程広壮美麗で、是まで旅客の混雑したことは無く、客の待遇(もてなし)も丁寧なので、至って評判の宜(よ)い旅館である。
しかしながら此(こ)の日に限り、加奈太(カナダ)から到着した汽船の乗客が、一時に詰め掛けたので、広い太陽館も旅客が充満して、やや雑踏した有様である。丸子嬢は数日の憂悶に非常に身体を悩まし、心も甚だ紊(みだ)れていたので、噪(さわ)がしい話し声、喧(かま)びすしい出入りの足音を嫌い、帳場に行って、閑静な別室に宿りたいことを頼んだ。
瘦せ衰えて愁いが募った嬢の姿を見て、人慣れている下女は、疾(はや)くもその心を推し量り、
下女「それじゃ此方(こちら)へ」
と嬢を伴ってやや奥まった一室(ひとま)に案内した。嬢はその部屋の入り口に立ち、思わず室の番号を見て非常に驚いた。何故か、この部屋は太陽館の二十一号室である。
先に嬢が恐ろしい夫殺しの罪を言い掛けられて、拘留された監獄室の番号と同一であった。嬢が驚くのも無理は無い。
嬢は身を震わせて、
嬢「アア、二十一号室とは聞くのさえ嫌だ。何卒(どうか)外の部屋を捜してお呉れ。」
嬢の身の上を知らない下女は不審気に、
下「何故お嫌で御座いますエ。この部屋は館中で一番静かな部屋で御座いますのに・・・・・。何に致たせ、今日はご存知の通りの混雑で御座いますから、ヤットこの室が明いて居る許(ばか)りで、外には一つも空き室が御座いません。ドウゾこの部屋でご勘弁を願度いもので、唯今珈琲を持って参りますから。マア御裕(ごゆっ)くりと疲れをお休め遊ばせ。」
と下女の詞を聞いて嬢は再び顔色を変え、
嬢「部屋が無ければ、ここでも宜(よ)いが、その珈琲丈はお断りだ。私は見るのも嫌やなんだから、代わりにお茶と今日の新聞紙を持って来てお呉れ。」
客の好みなので、下女は強いて珈琲を勧めず、茶と新聞紙一葉を置いて、暫しはこの部屋に来なかった。
寂乎(ひっそり)とした閑室に在る丸子嬢は、先日の公判廷の恐ろしさが、未だ目前に散(ちら)ついて、中々に消え去らない。新約克(ニューヨーク)往きの汽船便を捜そうと思い、頻りに新聞紙を見たが、唯美人の獄に係る記事ばかり目に触れて、心の悩みを増すばかりなので、その夜は早く床に就き、翌朝暁に目を醒まして、再び新聞紙を調べると、汽船「シチー・オブ・ビーアル」号は七月一日を以って新約克(ニューヨーク)に出帆するとの広告があった。
嬢「今日は六月二十九日だから七月一日にはもう二日しか間が無い。私は未だ提袋(かばん)も持たず、旅の仕度は一つも整って居無いから、早速出掛けて買い物を為(し)ないと、出帆の間に合わないだろうと、やや気を取り直して食事を急ぎ、海岸通りを四、五丁(約400mから500m)ほど右手に行くと、弁天通りと呼ばれる市街(まち)があって、左右に商家のみ軒を並べて、非常に繁華を極めていた。
嬢は船中の気晴らしに小説二、三冊を買おうとして、何心なく最寄の書店へ立ち入ると、不思議なことに、この店に於いて衰えた嬢の心に向かって、一撃を加える声が聞こえた。
それは如何なる声だろうか。
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