巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第二十四回

 蟻子夫人は前夜、夫の伯爵と共に南御殿の夜会に招かれ舞踏に非常に身体を疲れさせたので、庭園(にわ)の茶亭に夫を伴い、四方八方(よもやま)の雑話(はなし)に我を忘れ、眺め飽きない庭の景色に心の疲れを養って、約二時間ばかりを過ごした頃、伯爵は衣嚢(かくし)《ポケット》の時計を見て、

 伯「私は居間に帰らにゃならない。今日は居森根君が来る筈だから、少し用談も有り遊び旁々(かたがた)で・・・・。」
 蟻「左様で御座いますか。何れ後ほど私も参りましょう。」
と伯爵は夫人に別れて茶亭を立ち出でたが、夫人は急に伯爵を呼び留め、

 蟻「ア、誠に恐れ入りますが、私に宛てた手紙が数通参って居る筈で御座いましたが、チョット誰にか持たしてお寄越し下さいまし。」
 伯「左様、左様来て居た。凡そ十通も有ったろう。確か書物部屋の卓子(テーブル)の上に在った。早速持たして寄越そう。」
と伯爵は足疾(ば)やに本宅の方に帰って行った。やがて三、四分程を経過した頃、一人の下僕(しもべ)が数通の手紙を封じ込めた袋を持って来たので、蟻子夫人は、

 蟻「此処へ置いて。」
とテーブルの上に袋を置かせて下僕を帰し、暫らく庭の気色に見惚れて、袋に手をも着けなかったが、不図気が付いて、之を開くと、第一の手紙は遇蓮寺公爵夫人から来たもので、同家で催す大舞踏会の招待状であった。蟻子夫人は心に喜び、莞爾(にこり)と笑いながら次に開いて見たものは、東堂春江夫人の手紙で同夫人の催しに係る仮面舞踏会の招待状である。

 その第三は入洲夫人から来たもので、同夫人が近頃買い入れた舞踏衣装を、蟻子夫人に示めそうとして招いた手紙である。
 蟻「伯と一所に是非行きたい。」
と独言(ひとりご)ち、次に開いたものは、小間物商店から来たもので、物品着荷の披露状である。この様に夫人は五通の手紙を読み了(おわ)ったが、未だ袋の中には、一通の手紙が残っていた。

 夫人が之を取り上げ、未だその封を破る前にやや愕(おどろ)いた様子である。何故にだろうか。この手紙に限って、その封じ目が何と無く疑わしく、確かに煙草の脂(やに)で汚れていた。嗚呼(ああ)煙草の脂は如何にも疑わしく、誰がこの様な手紙を送ったのだろうか。併(しか)し夫人は深くも心に留めず、唯眉を顰(ひそ)めながら、封を押し切って、之を読み下すと、下の様に認(したた)めてあった。

 「以前から貴女をご存知居る者である。既に昨日のこと、拙者は紐盂街(にきぼんまち)に貴女を見掛け、暫らくの間顔を見詰めて居ましたが、早速貴女を思い出しました。世間の人は悉(ことごと)く、貴女が死去したことと信じています。併し今日拙者は、貴女が未だ死去せずして、この世に生活していることを確認致しました。仮令(たと)え貴女が如何なる姿に打扮(いでた)ち、如何なる場所に住もうとも、拙者は貴女に見覚えがあります。併しながら貴女の美しい目には拙者に見覚えは無いと思われます。

 この様に申すと、強(ひど)く貴女を見下げる様では有りますが、拙者は貴女を恋慕っている者です。拙者が貴女を見る時は、丁度太陽の光を見る様に、全く眩(まぶ)しくて見詰めることが出来ない程に、貴女を慕うものです。ですから貴女の身の上の事、貴女の秘密は前から詳しく存じて居る者です。以前拙者が或人から貴女が安部丸子嬢と名乗って、アメリカに渡ろうとして、海中に溺死したと聞いた時は、全く他事(よそごと)とも思われない程、拙者は愕き悲しみ、憂いに沈んで、一時は心も殆ど乱れ、神経をも失うほど哀悼(かなし)みに陥りました。

 その後日を経るに従って、哀悼も段々と薄らぎましたが、併しながら拙者は飽くまで貴女を恋い慕っています。花も羞(は)じ、月も光を失うほど美しい容貌(かおかたち)を持っている梅林雪子夫人よ。拙者は貴女を好く知って居ます。拙者は再び貴女の顔を見、一度び貴女の手を握ることを熱望しています。

 拙者の心に誓いを立てています。頼みます、梅林雪子夫人よ。憐れ拙者の心根をを押し量って、一度拙者の心願を達せさせて下さい。その時に在って、拙者は貴女の秘密を暴露することを望むものでは有りません。今まで通り、行く末永く貴女の身の上を、無事に保つ工夫があります。しかしながら貴女は拙者の頼みを容れて、拙者に面会をしなければなりません。是非共貴女は拙者に返事を賜るように。拙者は倉毛街の地球館に寄寓しています。貴女の返事を聞くか貴女の返書を見ない中は、他出せずに待って居ます。速やかに返事を送られよ。

 拙者は誓って貴女の秘密を洩らさないでしょう。秘密が貴女の腹の中で死せる限りは、同じく拙者の口中で死ぬでしょう。しかしながら拙者が之を守る上は、相当の報酬を貰わなければなりません。拙者は身分の賤しい者です。拙者は同じく貴女の様な貴夫人に付き従(したが)う一人の召使いです。

                        葛西丹助

 嗚呼先程まで花も及ばぬ色を保ち、笑い楽しんで居た蟻子夫人も、上の手紙を開き読んで、中央(なかば)に至った時は、早や面色全く青褪(あおざ)めて、死人の様に、手紙を持つ両の手は、震い動いて、読むことが出来なかった。幾度手紙を読み返したことか。夫人は暫し声も発せず手紙を卓子(テーブル)の上に投げ棄てたまま、呼吸(いき)を殺して塞(ふさ)いで居た。


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