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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第二十六回

 蟻子夫人は後ろを振り向いて、呼び留めた人の顔を見ると、全く見覚えの無い男で、何と無く目の中(うち)に怪しい曇りを持ち、生まれが善くない者と見えた。垢染みた背広の衣服を着て、縫目の綻(ほころ)びた粗末な靴を履いた様子は、紛れも無く人に召し使われるべき下男である。夫人はこの様な賤しい男に、その名を呼ばれて、この上無い恥と思ったが、言葉を交わすのを非常に嫌に思い、立ち止ったまま何の返事もしないで居ると、件の男は夫人の傍に摺り寄り、喜びの色を満面に浮かべて、

 男「有田の夫人(おく)さん、貴女は私を御存知有りませんか。」
と問う。夫人は嫌々ながら、
 夫人「知らないよ。」
と非常に淡白に蔑視(さげしし)で答えると、男は更に、
 男「私に見覚えが有りませんか。私の名前を聞いたことは有りませんか。」
 夫人「無いよ。」

 男「知って居ない筈は無い、貴女は梅林雪子さんでしょう。」
と言われて、夫人は思わずも身を慄(ふる)わし、顔色を変え、何と言って好いか言うべき言葉も無かった。
 男「ソラ、それを言えばギックリ心に当たるでしょう。併し私は決して貴女を無理に害しようなどと言う考えでは有りませんから、怖気(こわ)がるには及びませんよ・・・・。それからもう一つ聞いて置き度いことは、貴女はヨモヤ服部勤(つとむ)と言う人を忘れは致しますまいネ。貴女の弁護人で有った・・・・。」

と問われて夫人は愈々(いよいよ)吃驚(びっく)りし、以前に吾が家を忍び出る時、この様な事があるかも知れないとは、心に思い定めては居たが、今となっては思わぬ人から、公判廷の事を言い出されて、腹立たしさと悔しさと悲しさとに我慢が出来なくて、唯男の顔を恨めしそうに睨んで居るばかりであった。

 男「貴女は黙って居なすっても、その顔色で分かる。五十年経とうが百年経とうが、雪子さんが服部を忘れ成さる筈が無い。シテ見れば、私くしも知ってお出ででしょう。何を隠そう私は服部の家に雇われて居た書記で、葛西丹助と言う者です。」

 夫人「エエッ、服部さんの書記で有ったと。」
 丹「左様、左様、思い出しましたろう。毎朝毎朝服部と同道で監獄に行って、貴女に逢いましたでは有りませんか。その時私は貴女の美しい顔を見て、まるで気違いに成る程惚れ込んで・・・・。」
と聞いて、夫人は眉を顰(ひそ)め、

 夫人「話は聞きますが、その様な嫌らしい事は言わずに置いておくれ。」
 丹「イヤ決して嫌らしい事は言いません。唯私が服部の家に居て、貴女が海で死んだと聞いた時は、まるで私が死んだような心持ちで、その時分は気が抜けて了(しま)い、服部や何かに笑われたり、嘲弄(からかわ)れたりしましたが、先達って、思わずその死んだと思った貴女に出逢(でくわ)したので、独り手を拍(うっ)て喜びましたよ。」
と尚(なお)も葛西丹助は永々と嫌味な話をしようとするので、夫人は益々之を嫌い、

 夫人「その様な話は聞き度く無いから、早く肝心な用事を話しておくれ。」
と急き立てると、丹助も仕方なく、
 丹「それじゃ申し上げましょうが、用事と言っても、別の事でも有りません。此処(ここ)で貴女と約定を結び度いことがあるのです。」
 夫人「それなら汝(おまえ)は、約定して金でも貰い度いのかえ。」
 丹「マアマア、そう言ったような事です。」
と言いながら、少し小声になり、

 丹「初めはそうでも無かったが、此処で出逢って、腹に思って居る事を物語って、一度は想いを遂げようと考えたが、とても追い付かないようだから、仕方が無く金で済ますことに成ったのだ。今では私も零落(おちぶ)れ果てた身の上だから・・・・。」
と丹助が小声で語った事は、夫人に良くも聞き取れず、夫人は唯一分でも早く、吾家に立ち帰って、夫に疑念を増させまいと思うの
で、

 夫人「幾等か金を遣れば、私の身の上の秘密は他人に告げ無いと言うのかえ。」
 丹「ム、無論その考えです。」
 夫人「併し唯金を遣っても、この後、お前が決して他人に告げないと言う証拠が無い以上は、私は実に不安だよ。お前が名誉でも有る人ならば、格別のこと、又名誉の有る人ならその様な事を言う筈は無いから、何か確かな証拠が無ければ金は遣られないよ。」
と詰(なじ)り掛けると、流石に丹助も手を組み、頭を傾けてその答えに苦しんで居たが、暫(やや)あって、

 丹「そりゃ御安心でしょうよ。若し私が人に吹聴する様では、貴女から下される金が一度で留まる道理ですもの。下さら無く成るのは当たり前でしょう。」
 丹助の口振りに夫人は非常に不審気(いぶかしげ)に、
 夫人「一体全体、お前の望みは何様(どう)なんだえ。私は頭(つむり)の上に剣を持って居るような危ない事は本当に嫌だから、此処で確然(かっきり)と決まりのつく様にしたいものだネ。マア、お前の望みを言って見な。」

 丹「ナニ貴女の身に取っては、何でも無いことです。御覧の通り、私はこの上も無い貧乏人でしょう。貴女方は千や二千の金は何とも思わないで使う様な身分でお出でなさるから、私の一身を助ける位は朝飯前の事でしょう。沢山とは言いませんから、私の生きている間、毎年二千円づつ頂戴したい。その外はもう・・・・。」

 夫人「毎年・・・・・。お前の一生涯。」
 丹「左様」
と丹助は一向平気で強請(ゆすり)かけると、夫人は少しく意外に驚き、
 夫人「毎年二千円と言えば、随分少ない金でも無い。それに私の身には一円の金も持って居ないので、皆夫の金だから、今此処でお前の望みに任せてウンと約束も出来ないから。」
と言う夫人の思案の体を見て、

 丹「嫌なんですか。嫌なら無理にとは申しません。実は無くても宜(よろ)しいんです。」
と丹助は夫人の弱身を狙って強請(ゆする)ので、夫人も之を拒む事も出来ず、だからと言って我が所有でも無い夫の財産を、断りも無く他人に与えるとの約束も出来無い。

 この様な心の曲がった葛西丹助が、この世に居なかったなら、吾身の苦痛も起こらなかったのにと、不幸の種は未だこの世を去らずに、この様に来て吾(われ)を苦しめるのかと、暫らくの間心に思い起こして、嘆きに沈んでいる夫人の心中が推し量かられて、憐れである。

 やがて夫人は丹助に向かい、
 夫人「ナニ、決して遣らんとは言わないが、私にも少し考えて見なければならないこともあるのだから、今直ぐと言うのは、些(ち)と六ケ敷(むづか)しい・・・。」
 丹「イヤ私は少しも急ぐ訳じゃア有りません。早かれ晩(おそ)かれ、下さりさえすれば宜(よろし)いのだから。此様(こう)致しましょう。今日から一週間待ちましょう。一週間目に良く貴女が決心をして、又此処へお出で成さい。その上のことと致しましょう。」

 夫人「その様しておくれと言い放して、夫人は苦しい胸を撫で下ろし、丹助に別れをも告げずに、急ぎ吾が家に立ち帰った。


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