bijinnogoku35
美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ作 黒岩涙香、丸亭素人 共訳 トシ 口語訳
since 2015.10.10
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美人の獄 黒岩涙香、丸亭素人 共訳
第三十五回
身に覚の無い冤罪(えんざい)は、何時までその人を苦しめるのだろうか。十余年の間、在(あ)らゆる艱難辛苦を重ねて来た雪子は、遂に潔白の身と成った。天罰から逃れられなくて、大海の藻屑と成り果ててから、世に言い囃された安部丸子嬢は、本当に無実の罪を言い掛けられた、不幸の婦人で有る事を明らかにした。
夫の有田伯に見捨てられて、看護婦とまで落ちぶれた、漢田蟻子は、その真心が天に伝わって、年久しく自分の幸福を傷付けた仇敵を見付け出し、穢れのない身体となって蘇生した。欧米各国の新聞雑誌は既に長文の雑報を綴(つづ)って、梅林安雅を毒殺した下手人の白状を記載し、雪子の潔白、丸子の清廉と合わせて、蟻子の不幸を世に告げ知らし、世の人の迷妄(まよい)を解いた。
之れを読む者は誰一人として涙を流してその薄命《不幸》を哀しまない者は無く、誰一人冬村凍烟の悪逆を憎まない者も無かったが、中でも有田益美(ますとみ)伯は先きの日、蟻子に離縁を告げて、吾が邸(やしき)を追い出した後、世の風説が様々で、蟻子は死んだと言い、又伊太利(イタリア)に行ったなど、人の伝えるのを聞く毎に、蟻子の美しい姿が、幻現(まぼろし)に見えて、之を愛する心と、又之を恐れる感情に惑わされて、常に気分の悪い日を送って居たが、
或る日、図らずも新聞紙を読んで、蟻子が清い心を持ちながら、是まで世の中に悪婦と評判され、伯爵自身も共に之を信じ、吾が家の名を傷付け、吾が祖先の威権を穢す恐れに我慢がならないと思い定めて、宛(さしも)に愛情の深かかった蟻子を、酷く取り扱った事は、全く自分の誤(あやま)ちで、蟻子は自分を愛する人の毒手によって、思いも寄らない大罪を言い掛けられ、世に稀な美貌(きりょう)を持ちつつ、世に比類(たぐい)無い不幸に陥った婦人で有る事が明らかに成ったので、
一は悦び、一は驚き、遂には、その過ちを後悔し、暫らくは言葉も無かったが、既に蟻子が心濁らぬ婦人である事を知るに至っては、有田伯の恋慕の情は、以前に勝って愈々(いよいよ)深く、どの様にしても、之を連れ帰り、再び妻としていつくしみ愛さなければと、急に吾が屋敷を立ち出でて病院に赴き、取次ぎを求め、蟻子に面会を求めて、応接所に待っていると、程無く蟻子は入って来た。
今までその身に纏(まと)っていた禍を払い、心が全く澄み渡ると共に、蟻子の容貌も一際その艶を増して美しくなっていたので、有田伯は見るより突然(いきなり)蟻子に抱き付き、
有田伯「先達(せんだ)っての事は、全く私の過ちだった・・・・。」
と言うと、蟻子はもとより有田伯を嫌っていたのでは無く、伯が離縁を命じたからこそ、涙ながらに袂(たもと)を別ったもので、蟻子の心中では、有田伯をこの上も無い夫と思っていて、充分之を愛恋していたので、今この様子を見て、喜びの余り涙を浮かべ、
蟻「貴方は私を悪人と思し召したで有りましょう。併しこの上も未だ貴方は疑いますか。」
と詰(なじ)ると、伯爵は声を和らげ、
伯「アア、汝(おまえ)にそう言われると、何とも答える言葉が無い。この上は汝(おまえ)を疑うどころか、しみじみ離縁を後悔した。罪も科(とが)も無い不仕合わせな汝(おまえ)を疑って、種々な事を言い立てて、汝を辱しめたのは皆私が悪かった。思えば私が愚かで有った。何卒(どうか)堪忍(かんにん)しておくれ。そして堪忍した上は、元に戻って・・・・・。」
蟻「私はあの時、貴方のお言葉を実に残酷だと思いました。所詮あの様に仰せあそばすからは、どのように言い訳致しても、お用いの無いことと諦めまして、屋敷を出ました後は唯一心に神に祈って救助(すくい)を願いましたが、間も無く、冬村凍烟に運(めぐ)り逢って、思いも寄らない懺悔を聞きまして、私の疑いが解けました時は、吃驚(びっくり)いたしたのと、嬉しかったのとで、一時は茫然(ぼんやり)いたしましたが、段々正気に回(かえ)りましてからは、第一に貴方の事を思い出しまして、何時か折を見て貴方にお目通りした上、私の心中をお話致そうと考えて居りました。貴方も愈々(いよいよ)お心が打ち解けて、私を不憫と思し召したら」
伯「元へ・・・・・。」
すると莞爾(にっこり)と笑いながら、
蟻「それは貴方のご随意に遊ばして・・・・・・、」
と意外に打ち解けた蟻子の言葉を聞いて、躍り上がるまでに喜んで、
有田伯「アアそう言ってくれようとは、実に意外であった。汝(おまえ)が多少恨みを言い張って、容易に元に戻って呉れないだろうと、道々私は心配しながら来たのに、今汝(おまえ)の言葉を聞いて、この上も無く満足に思う。善は急げと言うことも有るから、不都合でなければ、只今から同道して帰り度いものだ。」
蟻「私も嬉しゅう御座います。今から直ぐにお伴をして帰りたいのは山々で有りますが、御存知の通り、この病院には私共を取り締まる上役が有りますから、一応の話しを致して、暇を貰わなければ、何だか可笑しな事に思われや為(し)まいかと存じますから、お嫌ながら、今日一日伸ばしまして、明日お屋敷へ帰る事と致しましょう。」
伯「それならそうして・・・・・。」
と相慕う伯爵と蟻子は、暫(しば)らく手を握って喜び合ったが、その日は有田伯も別れを告げて、一旦自邸に引き取ったので、蟻子は早速取り締まりの上役に、事の始終を物語って、快く暇を取り、翌朝有田伯が儀式も厳かに迎かいに来たのに伴われて、有田邸に帰り、再び伯爵夫人として栄誉の身の上と成り、その後は雪子の事を口にも出さず、楽しい月日を送ったと言う。
(完)
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