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武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道上編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第十二回
自ら嫉妬の心に駆られて居ることにも気が付かないで、小桜露人は唯何となく秘密袋の封を切らなければ気の済まない心地して、殆ど恐々に其の一端の口を開き、中にある物を取り出して検めると、何やら厚い紙で丁寧に包んだ一封があった。中は書類か、品物か、知る筈は無いとは云へ、幾年以前にこの様に包んで封じた者と見え、上封の紙は年月に黄ばみ、既に白さを失っている。小桜は思わずも、
「アア愈々遣身(かたみ)だ。縄村中尉が少女弥生に贈るのだ。」
と恨めしそうに呟(つぶや)くが、疑い深い恋という心が、既に胸の中をかき乱して居るに違いない。アア中尉は我を欺いたのだ。少女弥生の遺失した品だなどと言って、この品をば我に少女弥生へ取次がせる企(たくら)みだと見えた。勇士に似ない憎むべき振る舞いなので、出て呼び寄せて詰問して呉れようかと、腰掛から離れようとしたが、又見ると封紙の片面に、何事をか細々と認(したた)めて有る。露人(つゆんど)は猶予も無く篝火の明かりに差し向けて、其の文を読み下した。下の如くに、
「何人でも此の一封を落手する人は、封の儘(まま)で之を伯爵小桜家に持って行き、此の家に養われる弥生と云う女に手渡してほしい。伯爵小桜家はホン・ド・ボアと云う土地に在り。その土地の領主である。
此の一封は、右に言う弥生女の身には、非常に大切ではあるが、其の他の人には何の値打ちも有りません。決して中を開き見ること勿(な)かれ。弥生がもし死んだ後ならば、小桜伯爵に渡して下さい。必ず伯爵から相当の謝礼を受けるでしょう。
此の一封を作り、この様に茲(ここ)に書き記す者は、グランビル市の侯爵軽嶺家の未亡人薔薇(しょうび)夫人です。此の文言の誠実な事を表す為、特に名を署(しる)します。
侯爵夫人 軽嶺薔薇
唯之だけの文句である。小桜露人は読み終わって縄村中尉を疑った我が心の、全く過ちだった事を知り、梢恥(うらはづ)かしく思ったが、疑いの解けた丈は心の苦しみも消え、さては中尉と弥生の間には何の秘密も無く、此の袋は全く弥生の遺失した者であるのに違いない。弥生は今まで此の袋を持って居なかったが、グランビルへ入り込んだので、きっと何人かから渡された者に違いない。
此の袋が真に薔薇(しょうび)夫人から出たとすると、弥生は或いは薔薇夫人の娘であるか。爾(そう)すると我が妻とし、伯爵小桜家の令夫人として、別に恥ずかしい身分では無いなどと、非常に迂遠(まわりとお)い事にまで考え及び、暫しの間は夢中の有様だったが、又思えば、此の品は弥生の外に開く事が出来ない者である。弥生が若し死んだら、小桜伯爵に渡すべしと有り、小桜伯爵とは我が父にして、我が父既に死んだからは、その爵位を継ぎ家を継ぐ我露人が、之を保管することは差し支えは無いが、弥生がまだ生きて在る中は、我と言えど之を開いては為ら無い。弥生に逢って之を渡すだけだと、漸くにこう思い定めたので、一刻も早く弥生に逢い度(た)い気がして、心は少しも落ち着くことが出来無なかった。
此の戦争の中に於いて、たとえ弥生に渡したとしても、弥生が喜ぶべき暇さえ無いのは、明らかであるが、何と無く逢って渡し度く、又何と無く弥生の口から発する言葉を、聞き度いのが露人の気持ちである。今弥生は何処に居るのだろう。無事に此の軍に帰ったと今しがた縄村中尉が語ったので、帰って何人かの隊に属せるには相違無い。或いは先刻大将軍から、此の土地の地理及び間道などを知らせて来た。作戦の計画を定めたのも、弥生が帰り来ての報告に基づいた者か。
爾(そう)すると弥生は、今正に大将軍の営に居るに違いない。直ちに大将軍の許を尋ねて行って、弥生に逢おうか。否々此の方面の監督を任せられ、茲を任務の地として留まる身が、この様な事の為、妄(みだ)りに此処を立ち去るべきではない。夜明けに為ったら、弥生自ら必ず我を尋ねて来るだろうなどと、取(と)つ置いつ思案する折りしも、割れ鐘の如き声で、「副将軍」と呼び、此処へ入り来たのは、顔の色飽くまで黒く、筋骨非常に逞しい、年四十余りと見える大の男にして、小桜の領地から、此の露人に従って来ていた、黒兵衛という猛卒である。
小桜は此の声を聞いて我に返り、彼の一封を秘密袋に納めて衣嚢(かくし)に入れ、
「オオ黒兵衛か」
と云って迎えると、彼は一通の書を取り出し、
「どうも残念な事をしました。」
敵が門外の家へ火を放(か)けた者だから、今夜の軍(いくさ)は倒頭我が軍の敗けになった。それに付いては明朝、海岸の間道から攻め上ると云う事で、大将軍が貴方へ打ち合わせの為、此の書面を寄越しました。」
小桜は無言で開き見ると、大将軍の自筆にして、
「明朝五時半、干潮の時までに間に逢う様、兵を纏(まと)めて海岸に回り来たれ。」
との意を記して有った。
露「是丈では分からないが、貴様は大将軍に逢ったか。」
黒「ハイ今まで大将軍の許に居ました。」
露「海岸の案内は誰がする。」
黒「弥生様が充分に間道を見極めたとの事で、スイスの精兵十二名を引き連れて先登城すると云う事です。」
露「何だ、弥生が先導か。シテ弥生は何処に居る。」
黒「大将軍の営に、明朝先導の用意をして居られます。」
小桜は勇み立ち、
「宜(よ)し、明朝夜の明けないうちに、兵を纏めて行くから、大将軍に心得たと云って呉れ。」
と云う中にも早く弥生に逢い、秘密袋を渡し、もし又其の手に入った訳などをも聞き度いとの一念で、露人の身は震えた。
黒兵衛は心得て出で去ろうとし、又何事をか思い出した様に此方を向き、
「アア、副将軍、今夜は素晴らしい捕虜を一人得たとの事、どうか黒兵衛に此の拳固で、撲り殺させて下さいな。」
と握り拳を撫で廻すは、軍中無双の腕力を、縄村の上に加えようとの意であろう。」
露「イヤ、今夜の捕虜は敵の士官だから、万一此方の士官が、敵に捕らはれた時、引き換える為、人質として生かして置くのだ。」
黒兵衛は、
「アア、惜しい者だなア。」
と云い、拳を撫で撫で立ち去った。
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