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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.12.30

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 武士道上編 一名「秘密袋」           涙香小史 訳

               第十三回

 小桜露人は早く少女弥生に逢い、秘密袋を渡し度いと思う一念で、夜の明け来るのを待ち兼ねて、仮営を出ると昨夜敵の焼き討ちに逢い苦戦の後に敗走した味方の兵は、そうで無くても先頃以来続いた各地の敗北に、残り少くなった数を更に又少なくして、殆ど物の役に立つとは思われないが、茲(ここ)に討ち死にする外は逃げて行く所と言っても無い程の場合なので、小数ながらも町の各所の門を囲み、思い思いに攻め寄ろうとする有様である。

 しかしながらこれ等は牽制であって大将軍の真の目的は海岸に主力を集め、其の崖から攻め入って先ず町の内部を騒がす事に有る。小桜は昨夜の命令で之を知ったので、各所の門には見向きもせず海岸に急ぎ行き、先ず弥生は何れにあると大将の営を尋ねると、弥生は勿論其の自ら率いて行く筈だと聞いたスイスの山兵も影さえ無い。さては夜の明け切らない薄暗さを幸いとして早や先発したのかと思うところへ、大将軍は出て来て、

 「先発隊は崖の案内を知っている少女弥生が之を率き連れ、十五分ほど前に立ったので、御身は崖下に行き、他の士官と共に、後の兵を毎三分時を隔てて二十人づつ送り出だすようにするようにと云う。心得て直ちに崖の下に行くと、我こそ先発隊に続こうとして先を争ふ兵が充満して、士官も殆ど制止出来ない有様なので、露人は副将軍の威を以って之を鎮め、各隊の順序を定めて崖の上を見挙げると、風に吹き払われる朝霧の間に点々と白いものが翻るのを見る。

 あれは何だと傍らの士官に問うと、先発である弥生の隊が、後の者の道しるべに、岩の間へ白幡を挟み置きながら進んでいるのだと云う。更に又見上げれば、直径にして三十間(54m)ほどの上に大旗が風に靡(なび)き岩から岩の間をヒラ、ヒラ縫いながら越え登る者がいる。是こそ十二人のスイス山兵を引き連れる弥生であることに疑い無く、風に靡く大旗は、後の全軍に対しこの様に無事に進みつつ有るとの合図であるに違いない。

 其の様の勇ましい事限り無いので、小桜は之を見て心躍り、アア今日を最後とする此の軍(いくさ)に、弥生の兄と云われる我れ、後れを取って如何しよう。特に今日の軍(いくさ)、勝算は余り無く、其の中でも先発の一隊は十が十まで討死に終わる覚悟と思われるのに、此の儘(まま)顔をさえ合わせずに独り弥生を殺されて好いものか、死ねば我も共に死のうと、露人の胸には弥生を追って行く心、宛も潮の湧く様に満ちて来たので、大将の命令をも打ち忘れ、第二隊第三隊の発した後に、唯一人、単身で崖を指し馳せ登ろうとすると、早くも傍らより其の手を押さえ、

 「副将軍、何を為さる。」
と引き留めるのは、昨夜大将軍からの使いとして小桜の許へ来た従者黒兵衛である。露人はもどかしいと、
 「ナナ、邪魔するな。俺は弥生に用がある。」
と振り払うと、

 「イエ、了(いけ)ません。戦場へ出ても兎角露人は血気に逸(はや)るから黒兵衛、汝俺に成り代り露人を後見して呉れと、私は大旦那から云い付けられて居ます。ハイ、これが大旦那のお亡くなり成なさる時のお言葉です。貴方は今朝の先発隊に加はり討ち死に為さるような軽い御身分では有りません。」
と言葉せわしく争うのは、恐ろしい顔に似合はない主人思いの忠義とは知られる。

 日頃ならば父の最期の言葉と聞き、忽ち思い留まる露人なれど、今は心の中に秘密袋を弥生に渡さなければなら無いとの言訳がある。此の袋は昨夜見た上封の文句に在る通り、弥生の身に大切な品に相違ないので、弥生に若し討ち死にの恐れが有っては、猶更其の以前に渡さなければならず、是を渡すのは父に代わって渡すのだ。亡き父も必ずその様にせよと言うに違いない。此の用事は神聖な用事なのだと、非常に勝手な道理を持ち出し、

 「黒兵衛放せ。」
と言って又振り払い、早や崖を三、四間(6~7m)も飛び上がった。今行って弥生に追い付く事が出来たとしても、果たして秘密袋を弥生に渡すべき時間が有るか。渡したとしても弥生が之を受け取り、或いは其の仔細を説き明かし、或いは親切に有り難いとして喜ぶ様な時間が有るか否か、露人はこの様な事をさえ考へ廻すことは出来なかった。

 後に黒兵衛は、
 「エエ、年の若いと云う者は仕方が無い。今若旦那を死なせては、地の下に御座る大旦那に何と黒兵衛が言訳する事が出来るだろう。」
と云いながら、己が任務を他の人に託して置き、露人の後を追い是も同じく崖を上り始めたるが既に露人の姿は見えず。

 露人は勤王の意と恋の心と異様に胸の中に縺(もつ)れ結ばり、何が何やら唯だ弥生に逢いたいので、険しい崖を只(ただ)走りに走り上り、既に第三隊から第二隊を追い抜き、甲斐甲斐しい弥生の姿を十間程先に望む事とはなったが、余りに急いで来た為め、息が切れて此の十間(18m)を追い付くことが出来ない。特に彼方は山に慣れたスイスの山兵でこの様な所を上るのに巧みなので、ややもすれば其の距離の又遠くなる有様である。仕方が無く、

 「弥生、弥生」
と呼んだが、弥生の耳に入る様子も無し。其のうちに弥生は昨日の夕方縄村中尉に発見され、身を躍らして飛び下りた彼の砲台の下まで行くと、此の所には別に防御の人も無いだろうと思っていたのに、敵はこちら方の軍略を探り知ったと見え、数多の兵伏して居て、こちらの隊が狙い頃の所に達したのを見、一時に起こって射撃始めると、殆ど一声の許にスイス兵三名まで倒れた。

 しかしながら弥生は少しも怯まず、此処を行かなければ彼処へと云う様に、直ちに足を南の方に向けると、崖の南端には此の町の寺院が有る。寺院の裏庭に当たる塀、年を経たため所々崩れ掛って立っているので、弥生早くも此処に馳せて行き、山兵と共に之を乗り越え、雪崩の様に天然に傾いている荒庭を横切って其の第二門に行くと、敵もそうと知ったのか、早や砲台の方から波の様に此の門に押し寄せて来る様子なので、生き残る九名の山兵は、小勢ながらも突貫して敵を破ろうと、剣先を揃へて門から町に突いて入った。

 其の間に弥生は山兵の携えて来た大旗を取り、自ら寺の第二門に登り、後軍への合図として、兼ねて大将軍から命ぜられた通りに之を樹(た)てると、悲しや山兵九名の突貫は群がる敵に対しては殆ど九牛の一毛にして、雨と降り来る弾の為、門から五間(10m)と進まない中に倒れ、弥生が持っている大旗の柄にも反れ玉一発当たったので、弥生は体の中心を失って前に仆(たお)れ、既に死んだスイス山兵の死骸の間に落ちて入ると、此の時漸く追い付いた小桜露人は弥生も射落とされた者と思い、夢中になって門を潜(くぐ)り、弥生の仆れ伏す所に馳せ附けようとして同じくまた腰の辺を射抜かれ、残念と叫びんで仆れた。

 此の中で仆れないのは唯露人を追って来た黒兵衛のみ。彼れは直ちに露人を抱き起そうとするが、露人は息も絶え絶えなる声で、
 「俺を捨てて弥生を救へ。弥生を」
と急き立てるのは真に誠意の血と共に迸(ほとばし)り出た者に違いない。

 黒「ナアニ女っ子などは如何でも好い。」
と云い、其の儘露人を肩にして、今の門から崖の方へ逃げ去ろうとすると、此の時弥生は初めて露人の姿を認め、立ち上がり様、
 「エ、エ、露人様、其のお怪我は」
と叫び出したが既に遅い、敵の中から彼の狸田軍曹進み出て、
 「アア、昨日見た女の間者め。」
と云って弥生を捕えて押さえると、敵の幾人忽ち周囲を取り囲み、その間に黒兵衛は露人を抱いたまま崖を降りて見えなくなった。

 露人は幸いにして助かり得たが、弥生は到底亡き者である。



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