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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道上編 一名「秘密袋」          涙香小史 訳

               第十四回

 少女弥生が狸田軍曹に捕らえられると、又も群集の中から出て来た一人があった。
 「ホホ、捕虜ならば俺が預かる。市長から捕虜取り扱いの役目を命ぜられて居る。」
と云って弥生の身体を横合いより奪う様にして引き取ったのは弥生が先の夜、薔薇(しょうび)夫人の死骸の傍で見た十人力の腕八と云う乱暴者である。

 しかしながら弥生は既に事破れて捕らわれてからは、どうせ身の死に所と覚悟し、狸田に捕らわれるのも腕八に捕らわれるのも別に気に留まる所は無く、心の中で今日戦死する勤王軍の同士の者より遅れずに冥府に入ろうと祈るだけ。兄とも思う小桜露人(つゆんど)さえ既に今見た様な有様なのに、一人この世に生き残ったところで何を頼りに出来るだろう。

 実に勤王の軍は此の時既に一敗地に塗れていたのだ。弥生の率いる十二名のスイス兵が射殺されたのに引き続き、其の砲声を合図として、前から海面に浮かんでいたサン・モロの軍船から激しく崖を目掛けて射撃を始めたので、弥生の後に三分づつ時を隔てて続々攀(よ)じ登っていた勤王軍は、背後から弾丸を浴び、上る事も下る事も出来ず、崖の半腹で討ち死にし、雪崩の様に重なり合って転げ落ちた。

 そう言う事なので手負いの小桜露人(つゆんど)を脇挟んで、逃げ去った従者黒兵衛も無事に崖下まで達し得たかどうかは覚束無い。此の方面の敗軍と前後して諸方の門に攻め寄せた勤王軍も皆打ち捕らわれ、到底此のグランビル市を手に入れる事は出来ないことと為ったので、この町に最後の望みを繋いだ弥生の味方一同は全く総崩れと為ったものである。

 其れはさて置き、弥生の身を横合いより奪ひ取った腕八は宛も我が手柄で捕らえた様に見せ掛け、誇り顔で町の中へ弥生を引いて行くと、狸田軍曹は口惜しさに追い掛けて来て、腕八に向かって、
 「お前は此の女を知って居るのか。斯(こう)見えても敵の間者だよ。昨夜敵へ内通して縄村中尉と崖の傍で密話して中尉へ何か密書を渡したのは此の女だ。」
と云うと、腕八も驚いて、

 「オオ、その様な罪の重い女なら射殺して一同の恨みを晴らして呉れよう。」
と云い物陰に連れて去った。素より捕虜は必ず射殺される此の頃の習はしなので、誰一人惜しむ者は無いけれど、唯年若く愛らしい女だけに、群集の中(うち)には、
 「可愛そうに。」
など呟く者も有った。少しの間に噂が四方に伝はったと見え、之を見ようとして馳せ集まる男女も多かった。狸田は功を腕八に取られ無い様にしようと群集に向かい、

 「皆さん、此の女はジャン・ダーク女の再来とも云ふべき女豪傑です。捕らわれ際(ぎわ)に幾人の男子をも取って投げ、非常な働きを致しました。流石の私にも殆ど手に余る程でしたが、斯(こ)うなれば最(も)う占めた者です。私が捕らえたから私が射殺します。」
などと云うと、群集は此の手柄に感心するよりも、死を決して黙然たる弥生の憐れサに感心する様に、

 「この様な年若い女まで殺すには及ぶまい。」
と云い、
 「爾(そう)だ、爾だ、その様な女豪傑なら敵の秘密も知って居るから、今し方逃げる敵を追い掛けた市長の帰って来るまで活かして置き、篤(とく)と尋問するのが好いだろう。」
と和する者も有る。一場の世論益々弥生に傾こうとする勢いなので、狸田は腕八に向かい、

 「長引く丈不利益だ。早く息の根を留めて仕舞おう。」
と云い、早や銃殺の用意をすると、此の時群集を押し分けて腕八の許まで進み出る一老婆は、是こそ弥生を五歳の年まで育てたと云う彼の老婢お律である。お律は腕八の耳の傍で、

 「此の少女は私が薔薇夫人から預かって五歳まで育て挙げた弥生だよ。薔薇夫人の大金の在処知って居るのは広い世界に此の少女一人だのに、之を殺して如何する気だ。」
と囁くと、腕八は欲深い目を見開き、篤と弥生の顔を見て、成る程と思った様に忽ちに様子を変え、

 「イヤ、狸田軍曹、今殺すより生かして置いて、尋問しよう。」
 狸田は非常に怒り、
 「敵の捕虜を生かして置けば何時逃げ去るか分からない。その様な事を言うのは敵へ内通するのも同じ事。俺は縄村中尉を密告した様にお前をも密告するぞ。」

 此の脅しには腕八も非常に恐れ、何とも云い繕(つくろ)う言葉も無し。その間に老婢お律は熱心に群集に向かい、
 「皆様、此の少女を何と思ひます。是はサンモロの辺から彷徨(さまよ)って来た乞食です。三、四日前に私の家の前へ立ちましたから憐れに思い、色々其の身の上を聞きましたが、全くの白痴です。決して敵の間者など勤むる者では有りません。ご覧なさい、自分が殺されると云ふ間際に逃げようともせず平気で落ち着いて居るでは有りませんか。大白痴で無くて、この様に落ち着いて居られましょうか。この様な白痴(ばか)の女を間者に間違へて殺すとは余りに酷(ひど)いでは有りませんか。」
と声を限りに説き立てれば、

 「爾(そう)だ、爾だ。白痴の女は殺すに及ばない。」
と叫ぶ者あり。腕八も
 「成る程白痴だ。間者では無い。」
と云ふ。狸田は気を燥(いら)立たせて、
 「エエ婆々(ばば)何を云うのだ。白痴(ばか)な女が敵の案内をしてあの険しい崖から登って来るか。」

 律「コレハ可笑しい。白痴で無くて誰が戦争最中に崖を登って来ませうぞ。敵が此の女を騙し、汝は崖の道を知って居るに違いないから、先へ立って進め。爾(そう)すれば飯を沢山食わせて遣るとか何とか云ったに違い有りません。人並みの心を持った女なら此の崖を登る筈は無く、登って来たのが白痴の証拠では有りませんか。」
と無理に道理らしく言做(な)すに、狸田は又怒り、

 「此の婆々こそ敵に内通している。此奴を第一に密告する。」
と叫んだが、お律は六十年来、町中に顔を知られ、又到る所に贔屓にされる女なので、之を内通者と言做(な)しては何人も承知する事が出来ない。
 「お律婆々を内通者だと言えばそれこそ市長に叱られるわ。」
と云う者もあり。狸田の顔色俄かに悪くなる折りしも、又も群集を排(ひら)いて現はれたのは一同が尊敬する保田老医である。老医は静かに、

 「白痴か白痴で無いか、私が試験すれば分かる。何にもせよ、市長の帰るまで私が預かって置くとしよう。」
 此の言葉には誰一人服しない者は無く、其れが好い、其れが至当だ。」
など口々に賛成するので、終に弥生は保田老医に暫(しばら)く預けられる事となった。一段の虎口を逃れる事は出来たが更に逃れる事が出来ない大難場が眼前に横たわって居ることは又仕方の無いことである。」



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