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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道上編 一名「秘密袋」         涙香小史 訳

          第十六回

 秘密袋を捨てたと聞き、老医が一方ならず悔やむのを見て、さては彼の袋、爾(そ)れほどまで大切な品だったのかと弥生は初めて驚いたが、既に死をまで決した身に、如何に大切な品だと言っても、何をか惜しむ事が有るだろうと別に騒ぐ様子も無い。老医は猶(なお)も鎮(しず)まる事が出来ず、

 「捨てたとは何処へ捨てた。ドレ私が捜しに行く。」
と急き立てたが、弥生は真に白痴(ばか)の様に落着き、
 「捜しに行っても無駄です。もう人が拾いました。」
 「何だ、早や他人に拾われたのか。」
 弥「ハイ、私が捨てたのは海岸の崖の上で有りました。其の時、直ぐに砲台を巡視して居た士官の方が其れを拾いました。」

 医「士官とは縄村砲兵中尉ではないか。」
 弥生は先の夜、縄村が此の市の人たちに歓迎されているのを見た。其の名を老婢お律より聞いて知っているので、
 「ハイ、其の縄村と云う方です。」
 老医は呆れ果て独り言の様に、

 「これほど不思議な事が世に有るだろうか。昔薔薇(しょうび)夫人の許(もと)へ出入りした縄村海軍大尉の甥孫(おいまご)に当たる今の陸軍中尉がその袋を拾ったとは。併(しか)し今と為っては仕方が無い。其の中尉は昨夜勤王軍に捕らわれたと言うし。何故か薔薇夫人の身に関する事は総て不思議の中に終わって仕舞う。若し中尉が生きてでも居れば尋ねて行ってその袋を取り戻す道も有るだろうが、多分は昨夜の中に射殺すされたに違いない。」
と落胆の様殆(ほとん)ど譬(たと)える物も無いほどだが、弥生は何となく気の毒になり、

 「イエ、其の縄村中尉は昨夜捕らわれましたけれど、何故か命だけは助けられて居ると今朝私が出発する前、大将軍の営で人々が話して居ました。」
 老医は胸を撫で、
 「何だ、助けられて居る。其れだけはせめてもの幸いだ。軍(いくさ)の済むまで縄村中尉が無事であれば、何処に居るか尋ね出して、和女(そなた)に其の袋だけでも取り戻してやりたい。」
と云うと、此の時表の方から息を切らして此の室へ馳せ居り入ったのは、先刻腕八を釣り出して薔薇夫人の葬式に行った彼の老婢お律である。

 お律は忙しく四辺(あた)りを見回し、
 「アア腕八が葬式の演説をして居る間にヤッと抜けて走って来ました。今に彼が追い掛けて来ましょうから其の間に先生、此の弥生様を助けてやる工夫を致しましょう。」
と云う。

 老医はまだ秘密袋の心配に心の中が平静では無く、
 「イヤ、其れより大変な事がある。此の子はお前が薔薇夫人の肌から外して手渡した秘密袋を捨てたと言うのだが。」
 お律も之には驚いて、
 「嬢様貴女は先ア、何だってその様な事を成されました。あの中には色々大切な書類も有り、あれを捨てれば薔薇夫人の大金の在処も、貴女の産みの父母の名も、この世に知って居る人は一人も有りません。袋の中には貴女が日頃知りたいと言う母様が誰と云う事まで書いて有ったに相違有りませんのに」
と叱る様に言い聞かされ、弥生は初めて自分が不注意だった事を知り、
 「エ、母様の名まで書いて有ったの。爾(そう)とは知らず、オオ、律や、許しておくれ。」
と言って首を垂れると、老医は慰めようとする様に、

 「ナニ、縄村中尉が拾って未だ活きているなら何とか仕様も有るだろう。」
 律「エ、昨夜勤王軍に捕らはれたアノ縄村中尉が、其れを拾って、爾して未だ活きていますか。それなら何とか工夫も有るでしょう。それにしても先生、如何か嬢様を助けて上げなければ成りませんが、
 医「爾(そう)サ、あの捕虜係の腕八と云う奴が中々意地の悪い男だから、容易な事では助けられないが。」
と言って黙然と考へ入れば、お律は思案が浮かんだ様に、
 「私は先刻、彼腕八に此の少女が薔薇夫人の大金の在る所を知って居ると囁きましたが。」

 医「エ、何だってその様な事を。」
 律「爾(そう)言はなければ弥生様は直ぐその場で射殺されるところ有りましたので、爾(そう)言って彼を説き、その上この子が白痴(ばか)だと大勢の人へ言い聞かせました。」
 医「其れは私も聞いて居る。」
 律「ですから斯(こ)う致(いた)そうでは有りませんか。今に腕八が茲(ここ)へ来れば弥生様の口から、実は其の大金は小桜家の領地の或所へ埋めて有ると彼に向って言えば、彼必ず嬢様を引き連れ其の土地へ出張します。爾(そう)すれば其の途中で嬢様を奪い取る事も出来ましょう。」

 医「爾(そう)サ。其の外には差し当たり工夫は無い。」
 律「では嬢様、腕八が来て尋ねたら爾(そ)うお返事なさい。エ、大金は領地へ埋めてあるから、其のところまで行けば明らかに教えてやる。」
と。

 弥生は気の進まない様子で、
 「私は嘘など吐(つ)いた事は有りません。人を騙して助かるより、殺されるのが増しだと思います。」
 清き弥生の心には、真に偽りを吐くよりも寧ろ殺される方が容易であると思えるのだろう。お律も之には困却し、又もしばしが程思案に暮れていると、この様な所へ足音荒らく入って来たのは今しも噂していた腕八である。彼は三人の姿を見て、老医に向かい、恰(あたか)も叱る様な口調で、

 「先生、大切な捕虜を保管するのにこの通りお律婆などを此の室へ入れては仕方が無いでは有りませんか。」
 老医は之に答えるよりも、前からお律の機転を知っているので、お律に然るべく答へさせるに限ると思い、何気なく此処を立ち去ると、腕八はお律に向かい、

 「お前、先刻、此の女が彼の大金の在り処を知って居ると言ったね。」
 お律は猶(なお)も考へながら、
 「爾(そう)言ったさ。」
 腕「好し、それならば俺が直々に問うて見よう。」
と云い、更に弥生に打ち向おうとするので、お律は弥生の返事一つでどの様な椿事に立ち到るか分からないと慌ただしく之を遮(さえぎ)り、

 「問うても無駄だよ。先刻も言った通り、此の女は白痴だから。」
 腕八は目を剥いて、
 「ナニ、白痴、ヘン、その様な事は他人に言うが好い。此の腕八は此の女が幼い頃、お前の家に養われていた時から知って居る。其の頃人並み外れて賢い子であった。其れが若し其の後返事も出来ない程白痴になったなら、大金のある所など知って居る筈が無い。」

 お律は此処に至って漸(ようや)く思案が浮かび、
 「爾(そう)さ、幼い時は利口だったが其の後病気の為に気抜けがした、併しナニ白痴でも知って居る訳が有る。先アお聞き、斯(こ)うなんだよ。薔薇夫人が生前に遺言其の他の大切な書類を袋に入れて肌に掛け、死んだ後にはこの袋を弥生と言うこの子に渡してくれと頼んでいた。それだから夫人の死んだ時私が此の子を呼び寄せて、夫人の肌から直々に其の袋を受け取らせたがーーー」、

 腕「何だ其の袋の中に夫人の遺言まで入って居るのか。爾(そう)すれば此の子を夫人の相続人と書いて有るに違いない。此の子が生きていては俺達は一文にもならないのだ。」
 律「爾(そう)では無い。無言(だま)って終わりまでお聞き。許(もと)より袋の中の遺言には金の在り処(か)も書いてあるから。」
 腕「なるほど、在り処を書かなければ相続させる事も出来無い。」
 律「それだから其の袋をお前が受け取り、中の遺言を呼んで金の在所を知った上で、その遺言状を破って仕舞へば好い。」

 腕八は初めて合点し、
 「爾(そう)だ、爾だ。其れは旨(うま)い。」
 お律は猶(なお)もまことしやかに、
 「其の遺言には私へも生涯恩給金を呉れる様に定めて有るからと度々夫人は言はれたから、お前私へも褒美として其の恩給だけは呉れなければ了(いけ)ないよ。」
 腕八は早や大金を受け取った気になって、

 「遣るとも、三倍にもして遣るは、シタが其の袋は。」
と言って早や弥生の身を検めようとした。
 律「ところが一つ困った事は、此の女が白痴だから、昨日崖の傍で袋を遺失(おと)して仕舞った。」
 腕「ヤ、ヤ、何だと。」
 律「落としたのを縄村砲兵中尉が拾い、返そうと言ったけれど、白痴だから受け取らずにその崖から飛び下りたのさ。」

 腕八は既に狸田軍曹から聞いた様子と、此の語がほぼ符号している事から、偽りでは無い事を思い、首を延ばして聞き続けている。
 律「だから其の袋は今縄村中尉が持っているが、中尉は射殺されずに居ると言うから、其処に旨い工夫があるのさ。」

 腕「ドレ、ドレ、どの様な工夫か。」
 律「斯(こ)うサ、お前がこの子を連れて、今夜私の家へお出で。爾(そう)すれば、私は勤王軍の営に行き、誰にでも士官に、此方の弥生と言う少女が捕虜に為っているから、之を此方の捕虜、縄村中尉と取り替えて下さいと斯(こ)う願ふのサ。弥生は勤王軍で多勢に愛せられて居るから勤王軍では早速此の申し入れに応じ、弥生を返して呉れるなら中尉を返そうと言うに違い無い。」

 腕「成る程、爾(そ)うは言うかも知れ無い。」
 律「爾言へば私は直ぐに中尉と連れ立って帰るから、其処で弥生を中尉に合わせ、アノ袋を返して下さいと弥生の口から言せれば袋を返す。其れをお前が受け取れば好いではないか。その代わり袋さへ受け取れば此の弥生を放して敵へ返して遣らねば了(いけ)ないぜ。」

 腕八は様々に考えへ廻していたが、此の外に然るべき工夫が浮かばないので、
 「好し、その時は俺が此の少女を逃がしてやる。番人の寝た間に少女が巧みに逃げ去ったと言へば誰にも疑ひは掛らぬ訳だ。併しお前が中尉を捜しに行って其の日の中に捜し当てないか、又は捜して連れて来ても中尉が其の袋持って居ないとか、いずれにしても此の工夫が旨く行かないと見込みが附けば俺は早速此の少女を共和政府の憲兵に引き渡す。爾(そう)すれば少女は何の吟味も経ず直ぐに死刑に処せられるから。」
と言ふ。

 お律は心の中にて、斯(こ)うして少女と腕八とを町外れの我が家へ連れてさへ行けば、夜に入り勤王軍の人幾名かを呼んで来て、少女弥生を奪ひ去らせることは容易なので、茲(ここ)で腕八にどの様な約束をしても差し支えは無いと思って居るのだ。此の相談が漸(こ)の様に定まった丁度その時、窓の外で多勢の人々が共和政府の万歳を唱える声も聞え、中には、「縄村中尉万歳」など叫ぶ者も有るので、お律は若しやと思い窓を開いて見ると、これはそもそも如何いうことなのか、彼の縄村中尉が無事に敵軍から帰って来て、人々に歓呼せられつつある所である。

 何度見直しても多勢に取り囲こまれる一人は全く中尉その人であるので、中尉を種にお律の仕組んだ策略は全く行うに事が出来ないこととなった。弥生の運命は茲(ここ)に尽きてしまったと言わなければならない。



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