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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道上編 一名「秘密袋」           涙香小史 訳

               第二十三回

 縄の撚りの戻ると共に、弥生の身体は空中に舞うばかりか此の夜は空も曇って風の力は縄を動かし又右左に揺れ始めた。そうでなくても弥生は両手の力だけで一身を空中に支へ、次第次第に体重が重くなるのを覚え殆ど耐え難い時なので、其の身が左右に振られるに従い、重さは益々加わわって、とても下までは手の力が続かないだろうと思った。

 続かなくても降り行く外に道は無く、茲(ここ)で心を弱くしては愈々(いよいよ)身の破滅だと我と我が気を励ますと、日頃ならば出て来ない程の力まで出て来た。暫(しば)し身体の揺られるのさえ忘れていたので、何は兎(と)もあれ力の尽きない中に下の磯まで降り尽くさなければならないと、一心に縄を繰り又幾十尺(十数m)か降ると、又身の重さが増して来た。

 再び耐へ難く思う折しも、膝の辺(ほと)りを強く打つ一物があった。確かに崖から突き出ている岩の角である。打たれた膝が痛いとは思えず、今迄若し崖に足の爪先だけでも支える所があればと思って居たところだったので、有り難いと其の岩角に足を掛け、立ち上がるようにして身の重さを之に支えると、将に尽きようとしていた手の力もやや休まり、消え掛かっていた勇気も幾分は復(かえ)って来た。盲亀の浮木に逢った心地とはこの様な事を言うのだろう。

 しかしながら何時までも休んで居る訳にはいかない。若し干潮の時刻が過ぎて、下の磯辺に浪が来ては、降り尽くしても怒涛の中に葬られることは確実な上に、既に定めの刻限よりは幾分か遅れているので、再び気を励まして岩角を離れると、暫(しば)し勇気を養うことが出来たとは云え、初めほどは力が出ない。

 縄を握る手の裳(ひら)に非常に鋭い痛みを覚え、縄はそれほどまでに細くは無いが、ミシミシと手の肉に食い込むばかりである。其の上肉と縄との摩擦で熱を生じ、焼け火箸を握る様な思いがする。早く手を運ぶことは出来ない。又今の様な岩は無いかと時々は探る様に足を延ばしたが、降(くだ)れば降るほど崖は益々深く穿(えぐ)られ、何の支へにも触れることは出来なかった。

 しかしながら聊(いささ)か心強いのは、崖がこの様に穿(えぐ)られているのは磯が遠くない為である。浪高い時は此の辺まで打ち寄せる事があればこそ、崖が自ずから深く深く取り去られた者に違いないと、この様に思うと、先程から耳鳴りがして物の音を充分には聞き分けることが出来なかった鼓膜に、足の下でする浪の声が大いに近くなった様に響き、且つは世に磯臭しと称せられる一種の香(にお)いも鼻に入る心地がしてきた。

 若し此の声と此の香(におい)が来て励ます事が無かったなら、最早力の続かなかった所であったが、是で又太(いた)く力を得、今一呼吸(いき)の辛抱だと縄を繰(たぐ)っては又繰り降り、全く辛抱をし尽くして、最早この上は如何する力も無いと思える頃、足の方から縄は尽きてしまった。

 有り難い、縄の尽きたのは崖が尽きたからだ。足を延ばせば、磯の大地に触れるに違いないと足を延ばして下に垂れたが、何物にも触れる事が無かった。猶も一手繰(ひとたぐ)りしてみようと殆ど縄の端を手に持って又も足を延ばし垂れたが猶何物にも触らない。

 今までは眼の眩(くら)むことを恐れて全く下の方を眺めなかったが、今は地を離れるとも1~2尺(30~60cm)に過ぎないだろうと、多寡を括(くく)り、俯(うつむ)き見て、弥生は余りの恐ろしさに震い上がった。縄から下は猶(なお)遥(はる)かにして、夜の事なので眼も届かない。

 漸(ようや)く崖を降り尽くしたと思ったのに、降り尽くしたのではなかった。崖の半腹で縄が尽きたのだ。其の身は少なくても磯から四十尺(12m)以上の空中にぶら下がっているのに違いない。さては縄を送った老婢お律が崖の高さを性格には知らなかったのか、はたまた縄の長さを計り損なったのだろうか。

 否、否、お律はその様な過ちをする女では無い。彼ならば長くした上にも長くして、地に垂れて余るまでに用心するのは確実だ。何者とも知らないが、この身を殺そうとする者が殊更に短い縄を送り、この身が縄が尽きると共に崖が尽きたと思い、必ず縄を放して磯辺に落ち、微塵に砕け死ぬに違いない見込んでの事に違いない。

 茲(ここ)まで来て縄を放さずこの様に気が付いたのは未だしもの幸(さいわ)いである。否、幸に似て実はこの上無い不幸である。知らずに縄を放せば、一切の苦痛はそれと共に終わり、今頃は既に何事をも覚えず、此の無慈悲な浮世に最後の暇を告げた筈である。なまじに縄が尽きても崖がまだ尽きないのに気が付いたからこそ、同じ死ぬのに苦しんで死ぬことになったけれど、必死の際には脳髄が早く働き、様々の事を思う間に、絶望の念が心の底から湧き出て来た。

 身を絞る様な脂汗は身体の一切の毛穴を突いて出て来た。アア何者だろう、どうして我が身を欺き、この様な苦しい死に様に陥(おとし)入れたのだろうか。悔しい、恨めしいと今死ぬ身を悶えた。




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