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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道上編 一名「秘密袋」           涙香小史 訳

               第二十四回

 真に何者がこれ程までも弥生を欺き果(おう)すことが出来たのだろうか。弥生に若し茲(ここ)で悔し恨めしの念が起こらなかったなら、其の儘(まま)力尽きて縄を放し、落ちて磯辺に粉微塵と為る所だったが、唯此の一念で思わず縄を握り締め、如何(どう)あっても茲(ここ)に死んでは成らないと思い始めた。

 だからと言って如何(ど)の様にして身を助けよう。若し今しがた通って来た彼の突き出ている岩の上まで帰ることが出来れば、岩に足を掛け暫(しば)らくは息を継ぐことが出来る。彼の所まで上って行くしか方法が無い。手の皮は既に所々縄に擦り剥(む)け千切れる様な痛みを覚え、身体は益々重くなってどうにも仕様が無いが、死ぬまでは縄を放すものか。

 自ら絶望して力を弛(ゆる)める事はしない。死ぬにしても助かろうともがきながら死のうと、健気(けなげ)にも斯(こ)う思い定め、最早や一節でさえも手繰(たぐ)る事が出来ないだろうと思う縄を手繰ると、不思議なことに其の身は実際に幾分か上の方に動き、一節又一節と上り始めた。

 しかしながら是も少しの間で、やがては四肢五体の筋筋、余りの重さに耐え兼ねて、弥生の決心に反抗する様に震い出し、心血激しく頭脳に衝(つ)いて上り、血走る眼に一身以外の何物をも見る事が出来ない心地がする。茲(ここ)に至って縄の一節は千尋(せんひろ)の長さが有る様に思われ、一分の時間もほとんど幾年もの長さに感じた。

 上ろうと力を込めれば熱血悉(ことごと)く顔に集まり、目から鼻から噴き出る様な思いがする。唯之は必死の力で、苦しみと言う苦しみを重ね尽した上で、遂に辛くも岩に届き、肩だけを其の上に出す事が出来た。今一思いで足を其の上に載せる事が出来るだろうと思えるが、全く尽きて無くなった力は此の上に一寸さえも上る事は来ない。

 是からは落ちるのを待つだけなので、せめては命の有る中に神に最後の祈りを捧げ、其の上で永久不帰の境に入ろうと、血に膨れた目を閉づると、小桜露人(つゆんど)が臨終(いまは)の床で、我が身を招いている様に姿がちらついて、祈るだけの思想さえも集まらない。

 最早残る命が少なくなって、神に祈りを捧げるにも足りないのか思う折しも、砂か小石か、崖の遥かに上の方から、パラパラと音がして降って来て我が身を掠(かす)めて下の磯辺に落ちるのを聞く。この様に落ちろと言って我が身を案内する者だろうか。落ちるものかと言っても何時まで落ちないで居られようと、又も祈りを捧げようとすると、今落ちた小石の音に驚いてか、岩の間に住む蛇が現れ出たと見えて、ぞろぞろと我が頬を滑り、肩を伝って背の方に這い下がるのを感じた。

 今死のうとする身にも此ばかりは気味悪く、思わずも身を屈(かが)め足を引き縮めて上の方へ逃げようとすると、今迄我が力では到底出す事が出来なかった力が、蛇の気味悪さに自ずから出たと見え、縄わずかに一節を手繰(たぐ)る事が出来て、足が自ずから岩の上に乗った。

 足に確しかな踏み所あれば、立ち上がる様に又一節を手繰る事は空中に吊り下がるよりも容易なので、有り難いと岩の上に立ち、縄に縋(すが)って身を延ばし、初めて術無き息を継いで、張り切れる様な筋筋を聊(いささ)か弛(ゆる)めながら、さて此の後を如何(どう)しようかと考えた。

 下の磯辺には、荒波がこの身を巻き込もうと待つ様に吼えている。上には猶(なお)百尺(30m)程も崖が立っていて、下るのさえ難かしいのに、疲れた身では到底攀(よ)じ登ることは出来ない。たとえ攀じ登る事が出来ても、達する所は先に脱(ぬ)け出した牢獄で、明日死刑の場に送られるだけだ。

 上下左右いずれを見ても活(い)きるべき道は無く、全く死運に取り囲まれたものなので、さては神が単に死に際の祈りだけを満足に捧げさせる為に、我が身を此の岩まで引き上げてくださったものだったかと又も祈りを始めようとすると、此の時再び蛇の様な物が我が肩の辺に触るのを感じた。驚いて身を一方に傾けようとすると、是は蛇では無く、我が身が縋(すが)っているのと同じく、長い節縄が遥か上の獄の方から垂れ下がっているものだった。

 或いは是我が身を殺ろそうとして短い縄を送った悪人が、我が身の猶(なお)死なないのをもどかしく思って、別に縄を垂れて我が身を突き落としに来る為の物ではないかなどと思ったが、又思えば我が身を殺すには窓の所で此の縄を切りさえすれば足りるので、別に又一筋の縄を垂らして下って来る必要は無い。爾(そう)すれば我が身と同じく牢を抜け出ようとする人の仕業ではないかなど、様々に疑う中に早や上の方に人の気配が有る様に思はれるので、仰ぎ見ると、三、四間の上に、縄に絡(から)まる黒い者があった。

 夜目にははっきり見えないが、力強い人と見え、我が身が恐る恐る降りたのとは同じでは無い。宛(あたか)も梯子を下る様に非常に早く降りて来て、既に其の足が我が肩を踏むかと思えるまで近付いて来たので、若し踏み落とされてはとの気遣いから、我知らず、
 「助けて、助けて」
と叫ぶと、其の声は低いけれど、魂も消えるばかりに悲しそうなので、上の人は直ちに聞き取り、手足を休め身を留め、首を曲げ向けて下を眺め、

 「アア、今来る時、下の窓から一本余計な縄が垂れ、引いて見れば重く張り切って居たから此の様事では無いだろうかと急いで来たが、ハハア、降りも昇りも出来ないのだな。」
と云い、早や弥生の傍まで降り来た。同じ岩角に足を掛けて弥生の顔を覗き込むので、弥生は既に力尽きて殆ど何事をも充分には理解することは出来ず、夢の如き心地で其の顔を見返して、
 「エ、エ、あの共和軍の士官か。」
と叫んだが、驚きの余りに、辛くも今迄縄にすがっていた両の手を放してしまった。



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